ガーディアン
「三輪さん、どうぞ」
今日午前の4件目の患者さんを診察室に呼び込む。
猫を入れたキャリーはレース生地でできたカバーがかけられ、持ち手はピンクのリボンと白いボンボンで装飾されている。今日が初めての受診だ。
「初めまして、クルミちゃんですね。よろしく」
雨宮はキャリーの中を覗き込むように、猫に声を掛け、同時に猫の様子を観察する。3か月のチンチラシルバーという白い長毛の仔猫だ。仔猫のせいか、それほど緊張した様子もなく、キャリーの床の真ん中で丸くなって座っている。ふわふわの被毛で、まるでウサギのような小動物を思わせるかわいらしさだ。
「今日は、ワクチンをうちに来てくれたんですね」
今度は飼い主の三輪さんに話しかける。年のころは20代後半だろうか、シンプルなグレーのシャツにタイトな黒のスカート。染めたことがないような黒髪を肩の高さで切りそろえているが、和風のととのった顔立ちのため、その黒がかえって華やかに感じられる。
「はい。ワクチンをお願いします。その他、病気にならないように注意することがあれば、色々教えてほしいんですけど」
動物を飼い始めたら、ワクチンを打ちに行く。これはペットショップの努力のせいか、かなりの飼い主さんが、そういうものだと知っている。その他の予防や、仔猫の成長に合わせての生活指導、予防の継続については動物病院の腕の見せ所だ。初めての来院の際に、必要なことをわかりやすく説明しなくては、その動物の今後の生活を大きく変えかねないから丁寧に接するように心がけている。
「そうですね。まずワクチンは、予防の効果を高めるために来月もう一回打つことがお勧めです。その後は、毎年1回ずつ追加接種が必要ですから毎年1回は病院に来てくださいね」
まずワクチンの説明をする。
「それ以外には、お腹に虫がいないかどうか検便をして、必要がれば駆虫するといいでしょう。後はノミやダニも予防もしておくといいですね」
「他はないですか」
「さらにみるなら、FIVやFeLVといったウイルスの感染症があるかないか見ておくのもいいでしょう。でも、この子の親は野良ちゃんじゃないから、感染の可能性は低いと思いますけどね」
「それだけで大丈夫ですか」
三輪さんはかなり心配性のようだと雨宮は感じる。動物の飼育に熱心なことはもちろん望ましいのだが、熱心な飼い主は得てして裏を返すと必死過ぎて視野が狭まっている。予防推進派である雨宮だが、あまりに必死になってしまっている飼い主には、逆にその気持ちをほぐすことも動物との幸せな生活を形成するには必要だと考えている。
「一般的な予防や、初期の検査は今言った内容くらいです。調べようと思えば、血液検査やレントゲン検査などもできますが、今日、身体検査をさせてもらって、病気が疑われることがなければ、1ヶ月に一度体重測定に来てもらって、その間に不安なことがあれば検査をするようにしましょう」
と、検査検査に走りそうな三輪さんの気持ちに軽くブレーキを入れる。
「すみません先生、前の子を急に亡くしてしまったので、ちょっと神経質になってしまっていて。でも事前に予防できることはできるだけしてあげたいので、これからもご指導よろしくお願いします」
三輪さんは、物理的にもやや前のめりに乗り出していた体を通常の座位に戻し、小さく笑顔を見せた。
「わかりました。クルミちゃんの健康を僕たちも見守っていきますから、心配なことがあれば相談してください」
ようやくキャリーから出されたクルミちゃんは、やや腰が引けている様子はあるものの、怒ったりせずに診察をさせてくれた。体格もしっかりしているし、眼や耳もきれい、熱もなく、特に病的な様子はない。ワクチンを打ったとき、小さくキャッと鳴いたが、すぐに何事もなかったように毛づくろいを始めた。
その後、数分クルミちゃんを預かり、採血してウイルスチェックと、体温計についた便で検便を行ったが、いずれも問題なくクルミちゃんは健在健康だろうという診断に行きついた。
「ありがとうございます。安心しました。これからもよろしくお願いします」
綺麗にお辞儀をしながら三輪さんは帰っていった。やや必死なところがあるが、うまく病院がサポートしていけば、熱心で良い飼い主さんになりそうだ。
予防についても、したくない、したほうが良いといういつもの議論もこらず受け入れてくれた。皆が、こういうふうだと楽なんだけどな、と思う雨宮だが、良い飼い主というのは、雨宮にとって必ずしも医療に熱心、獣医にお任せな飼い主という意味ではない。動物と良い関係と距離感を持つ飼い主という意味だ。
雨宮はその関係を上手に作っていく手伝いをしたい、そうすることが動物と人とを幸せにするのだという思いでホームドクターということを強く意識して開業したのだ。
「安田さんどうぞ」
次に待っていた、安田さんがその飼い猫ヤマトをいつものように肩に乗せて入ってきた。安田さんは、猫のヤマトと2人暮らしの初老の男性だ。短く刈り込んだごま塩頭で、口調はややぞんざいだが、猫の扱いはなめらかだ。ヤマトも安田さんによく懐いて、胴輪を付けて肩乗り猫として来院するのが常だ。微笑ましい光景にも見えるが、病院という場所だから、何かの拍子に逃げてしまうことも懸念され、キャリーに入れて連れてくるようにと何度もお願いしているが、それはどうしても受け入れられない。病院が思う動物の快適と、飼い主が思うそれは一致しないこともある。
「今日は爪切だけでいいです。先生にわざわざ出てきてもらってすみませんね」
どうやら病気での来院ではなく、ケアの来院のようだ。動物病院では、病気を治すだけでなく、爪切りや耳掃除など日常のお手入れを行うことも少なくない。
「では爪切りは看護師にお願いしましょうか。でも、安田さん、ヤマトちゃんはワクチンをもう5年も打ってないですよ、今年こそは打ちましょう」
雨宮がわざわざ爪切りとわかっていた安田の診察に顔を出したのは、ワクチンを促すためだ。毎回、来院のたびに推奨している。
「いやぁ先生、ヤマトは外に出ないからさ、風邪なんてひかないですよ」
何度も繰り返す同じやり取り、外に出なくても飼い主がウイルスを持ち込んでくるかもしれないという話ももう5度目ということになる。しかし、安田にはその思いも届かず、今年ものらりくらりと避けられた。予想通りの反応にやや疲労感を感じる雨宮だが、確かに靴の裏についてくるウイルスというのは説得力が薄いと、雨宮自身も思う部分があり、ついつい安田さんの言葉を受け入れて、もう何年もワクチンを打てずにいる。
「じゃあ、木村さんヤマトちゃんの爪切お願いしますね」
奥に声を掛けると、爪切りの準備をした看護師の三輪が入ってくる。ヤマトはおとなしい猫だから、木村一人に任せて大丈夫だろう。雨宮は、軽く会釈しながら部屋を出て、奥の部屋でカルテを簡単に記載する。『未接種5Y』。
「高橋さん、ショウノスケくんどうぞ」
次は柴犬のショウノスケと飼い主の高橋さん。今日の診察はワクチン接種だ。犬の場合、散歩に行くというのが生活の一環にあるせいか、ワクチン接種を嫌がる飼い主は猫よりは少ない。
「今日は混合ワクチンですね。去年ワクチン後に体調を崩したりはなかったですか」
一応、ワクチンの副作用について聴取する。副作用はそれほど多いことではないが、副作用を心配する飼い主の心情を鑑みずにいると、散歩友達からの忠告などでワクチン接種をやめてしまうことにつながりかねない。なぜか病気になると動物病院に来る人も、しつけやワクチンに関しては、獣医師よりも散歩友達の話を信じる人が多いのだ。きっと動物病院は急成長しすぎた分野だから、うまくバランスを取りながら発展できなかった後遺症なのだろう。
「特に気になることなく、元気でしたよ。や、こいつ震えてるね、先生」
「ちょっと緊張しているかな。ほら、おやつ食べるかな」
緊張しているショウノスケは、おやつを口にはしなかったが、僅かに臭いを嗅いで気が向いているうちに手早く身体検査をする。病的なことはみられなかったので、高橋さんに頭をなでて気を紛らわせもらっているうちに、素早く臀部にワクチンを打つ。ショウノスケは打たれたことに気が付いていないように、細かく後ろ肢を震わせている。緊張している動物は、注射の痛みに怯えるのではなく、病院の環境や飼い主以外の人間による拘束(保定というが)でパニックになるのだ。
「はい、終わったよ。じゃあ。今日は安静に過ごしてくださいね」
「どうもどうも、ほれ、ショウノスケ帰るぞ」
リードを付けて帰り支度をしている高橋さんに、雨宮が声を掛ける
「ああ、高橋さん。狂犬病のワクチン、今年まだ打っていないみたいですから来月にうちに来てくださいね。本当は4月に打たなくてはいけないんですよ」
いままで上機嫌だった高橋さんが、少し視線をそらすのを感じる
「ああ、そうでしたね。すっかり忘れてた。また来ますよ」
診察室を出て行った、高橋さんが受付で支払いをしながら、看護師にしゃべっている声が聞こえる
「先生にさ、狂犬病のワクチンにきてくださいって言われちゃったよ。でも、狂犬病なんて今日本にないんでしょ。そんなもん打つなんて、病院が儲けようとしているって言われてるよ」
獣医師には言わなくても、看護師に本音や愚痴を漏らす飼い主は多い。
そう、人の感情は複雑だ。動物同士の伝染病を予防する任意のワクチン接種は拒まない飼い主も、今は撲滅されている狂犬病が再侵入することを防ぐためのワクチンへの理解は低い。そして獣医のもうけ主義だとか、行政の怠慢だとかいう。
そうじゃないんだよと雨宮は思う。狂犬病だって、昔の飼い主達と獣医師の努力で撲滅できたんだって、その恩恵に乗っかって、やがて破綻してしまったら、先達に顔向けできないってと、口には出さずに反論する。
先ほど放棄した原稿を頭に思い浮かべる。学術的に、ワクチンや予防薬の有用性を説くのは簡単だ。しかし、それは恐ろしく無味乾燥な説明で、病気に直面していない動物とその飼い主の心を動かす画期的な言葉を雨宮はまだ見つけられない。




