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ガーディアン  作者: 空井 純
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見えなくても存在するもの

 パンデミック・汎発流行、つまり伝染病の大流行。これはしばしば人をパニックに陥れる。黒死病との呼ばれるペストや、スペイン風邪ともいわれるインフルエンザ、結核など多くの伝染病が人々の命を奪ってきた。やがてそれを予防するための衛生管理やワクチンというものが作られ始め、人々は伝染病の恐怖から離れて暮らすことができるようになったのである。

 それは動物医療も同じこと。かつてはパルボウイルス感染症や、ジステンパー、フィラリア感染症で多くの犬猫の命が失われていた。しかし現在都会と言われる地域では、その発症は非常に少なくなってきている。それが予防獣医療の力だ。つまりワクチンと予防薬の普及、それが動物の寿命を延ばし獣医療の発展に貢献してきたのである。


 ここまで書いて、雨宮達雄は自分の文章の無味乾燥さに飽き、こめかみをもみほぐし、何かいいアイデアが生まれないものかと期待した。特に何も思い浮かばなかったので、とりあえず、パソコンの保存ボタンを押し、執筆を終了する。

 雨宮は開業13年の中堅獣医師だ。獣医師会報に予防啓発の記事を執筆するよう依頼され、診療の合間に書きはじめてみたものの、思ったように運ばない。

 2003年を頂点とするペットブームの流れにより、動物数は増え平均寿命も延び、獣医療は日進月歩で進んだことを雨宮は肌として感じている。昭和32年以前は狂犬病も発生していたし、雨宮の父の時代には、犬は5~6歳で心臓に寄生する寄生虫であるフィラリア症にかかり亡くなることが多かった。また、雨宮が開業前に勤務した病院では、仔猫のパルボウイルス感染症子犬のジステンパー感染症は必ず注意しなくてはいけない病気であった。しかし、フィラリアの良い予防薬ができ、ワクチンの普及率の高まりとともに、これらの感染症は少なくとも都会といわれる地域では珍しい病気となってきた。それは確実に予防医療の恩恵に他ならないのだが、眼に見えない敵、そしてさらには身近にない恐怖について人を納得させる方便というのは意外と難しい。

「喉もと過ぎれば何とやら」

 雨宮は声に出してつぶやく。高度獣医療というものがテレビなどでも取り上げられ、視聴者はその輝きに期待を寄せる。一方、ワクチンや予防薬という、動物たちの健康増進を下支えしている手段については、敵意すら向けるようになる。『無駄な薬をうちの子に与えたくありません』、『予防は獣医師のもうけ主義では』何度となく投げつけられる言葉。

「そうでもないんだけどね」

 そうわかっていながら、患者さんごとに説得していくことに疲労も感じる。机の一番下の引き出しに視線を向けその奥にある小瓶に思いをはせようとした瞬間、内線が、患者が来たことを伝える。スタッフルームと、ついたてで隔てただけの自称院長室での執筆をやめ、一つ伸びをしてから白衣を羽織り立ち上がり雨宮は診察へ向かった。


 雨宮の病院は、院長である雨宮と、看護師が2名だけの小さな病院だ。いわゆるかかりつけ医、ホームドクターだから難しい病気に接するよりも、お腹が痛いようだとか何となく食欲がないなどちょっとした病気や予防接種、動物との生活に関する相談などが多い。刺激的でドラマチックなことはあまり起こらないが、動物たちの生活を守っているという感覚が雨宮には心地よい。

「先生いる」

 受付の声は、常連の三宅さんのようだ。ヨークシャーテリアのマメちゃんの飼い主さんだ。いますよという、受付にいた看護師の安田の返事が聞こえる。声の調子からして今日は診察ではなさそうだ。

 雨宮はホームドクターとして、病院が地域の動物の情報交換の場になればと思い、病院の外の小さなスペースに、パラソルと3脚の椅子を置いて、小さな休憩所も用意している。そのかいがあり、病気でなくても散歩の途中の飼い主さんたちとその犬がそこで交友を深めたりする風景も日常的だし、そのついでに飼い主さんがひょいと病院に顔を出して、動物の飼育の困りごとなどを相談して帰ることもしばしばある。

「今日は娘の一家と孫たちが遊びに来るから、ちらしずし作ったんだけど作りすぎちゃって。ほらこれ、お昼にでも皆さんで食べてちょうだいよ。けっこうおいしいと思うのよ。また先生にお世話になることになりそうだから、ワイロね」

 三宅さんはご近所に住んでいるご婦人で、時々手作りの惣菜をさしいれてくれる。料理の腕前もなかなかだ。

「三宅さん、いつもありがとうございます」

受付に現れたひょろりと背の高い雨宮を見て、三宅さんの顔がぱっと一段明るくなる。

「まあま、先生わざわざ出てきてくださって。すみませんね。また差し入れもってきたの、お口汚しかもしれないけど、どうぞ召し上がってね」

「いつもすみません。マメちゃんは変わらず元気ですか」

「ええ、おかげさまで。このところはお腹を壊したりもなく元気よ。でも、今日、孫たちが来るから、また具合悪くなっちゃうかも。そしたらまたよろしくお願いしますね」

にぎやかに話しながら、三宅さんは帰って行った。

「お孫さんたちは、マメちゃんの天敵だもんな」

受付にいた看護師の安田と並んで、出ていく三宅さんを見送りながら、雨宮がつぶやいた

「マメちゃんは、普段三宅さんが溺愛しているから、過酷な環境に弱いんですよ」

と、安田が笑いを含んだ顔で言い

「三宅さん、マメちゃんを可愛がっている割には、今日もノミの予防薬買ってくれませんでしたね」

と付け足す。

 そう、三宅さんは、雨宮の開業するフレンドリー動物病院のファンだ。そして、飼い犬も可愛がっている。しかし、そういう人が必ずしも予防に熱心とは限らない。

「まね。でもワクチンと、フィラリア予防はどうにか続けてくれるようになったからね」

 無造作ヘアなのか、伸びてしまったのか、少し長めの油気のない髪を掻き上げながら、診察室へ戻っていく雨宮を安田はじっと見送っていた。



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