【1】
何処か遠くでピッ、ピッ、と機械的な電子音が規則的に鳴っている。
何かが───たぶん、液体がポタ、ポタと落ちる音もしている。
その小さな音よりも、もっと騒がしく何かを叫び合っている人達が何人も居て、それよりも更にうるさくザー、ザーと砂嵐のような音が不規則に途切れて聞こえていた。
「左足の止血はまだか!」怒ったような、焦ったような、男の声がした。
声の感じでなんとなく中年男性だと思う。それ以外のことはわからない。
私の目の前は真っ暗で、ほんの僅かな光すら見えないから。
それを補う為に聴覚が鋭くなっているのか、周りの音は妙にはっきりと鮮明に聞こえた。
「と、止まりません!血圧、低下してます!」次は甲高い女の声。切羽詰まって、まるで悲鳴のようだ。
ガチャン、と金属製の何かが乱暴に重ねられたような音がする。
それからバタバタと足音、キュルキュルと何かが擦れる───錆びた自転車を押すような感じの音。
「右大腿部、処置終わりました!」
「心拍、乱れてます」
また別の男と女の声が同時に響いた。
今度の男は声が高く若そうな感じで、女の方は周りより落ち着いていて淡々としている。
気付くとピッ、ピッとさっきまで規則的になっていた音が乱れ始めていた。
ザーザーと聞こえていた砂嵐も増してうるさくなっている。
そこで急にさっきまで気付かなかった、ツンと鼻をつく薬品特有の臭いがした。
歯医者に行った時の臭いの更に強いやつ。
それに混ざって鉄サビのような臭いもする。
今まで感じたものを整理してみると、なんだか医療ドラマの手術シーンみたいだな、と思った。
ああ、そうだ。
私は今、病院に居るんだ。
そして病院で手術を受けている。
きっと命に関わるような───危機的で絶望的な状態で。
そう理解した時にやっと、ザーザーと聞こえていたのが自分の呼吸───内側から響く肺に空気が出入りする音だったのだと気付いた。
その呼吸は乱れ続け、徐々に弱くなり、そして消えていった。
「先生!先生!心肺っ、心肺停止です!」
ドッ、ドッ、ドッ───30回。
そうか、私は死ぬんだなぁと。
血が沢山出て、心臓が止まって、そして死ぬ。
不思議だった。
体はもう死んでるだろうに、何故まだ私の意識はこんなにもはっきりとして───未だにこうやって自分の状況を冷静に考えることが出来ている。
脳味噌がまだ生きているのだろうか。それとも魂なんてものが存在していて、幽霊とかいうものになっているのか。
なんにせよ気分はあまり良くない。
死ぬ時にわざわざ自分が死ぬのを認識しなきゃならないなんて、やっぱり怖いし未練もあるし嫌だ。
不思議と取り乱すような感じじゃないけど、死にたくないなとぼんやり思う。
ドッ、ドッ、ドッ───30回。
もうこれはヤバそうだな、と。
そう思った途端、急に眠気が襲ってきた。目はきっと閉じていて、ずっと暗闇だったけど。
そうか、もう流石に脳味噌も限界なのかも。
いよいよ私は死ぬ。
嫌だな、ああでも眠くて仕方がない。
私には物心ついた時から“お父さん”というものが居ない。
幼い頃の私の世界には、ずっとお母さんと“オジサン”しか居なかった。
オジサンは短い金髪だったり茶髪だったり、髭があったり眼鏡をかけてたり、色んなオジサンが居た。
お母さんはオジサンを家に連れて帰ってくると、私を四畳半の部屋に入れる。部屋にはお母さんの服や掃除機やダンボール箱が置いてあって、お母さんがいいと言うまでその物置と化した部屋から出てはいけない決まりだった。
オジサンは気まぐれに私にお菓子やオモチャを買い与えてくれたけど、お母さんからは何かを与えられた記憶が無い。
食事は夜だけで、コンビニの弁当やカップ麺、おにぎりだけの日もあった。
足りない時は水道水を飲んで空腹を紛らわせる。
私が5歳になったある日、お母さんが帰ってこなかった。時間はバラバラだったけど毎日帰ってきていたのに、次の日のお昼になっても帰ってこなかった。
私は空腹を我慢できなくなって外へ出た。数える程しか外出したことがなかったけど、住んでいたアパートの目の前にコンビニがあることを知っていたからだ。
ただ空腹を満たしたい思いでコンビニに駆け込み、並べられた弁当を一つ手に取って包みを破いた。
蓋を剥がしてハンバーグを手掴みしたところで───この頃は食事の時にお箸やスプーンが無いことも結構あったから、手掴みで食べるのは普通だと思っていた───若い女の店員が慌てて走ってきて私の手を掴んだ。
「お母さんは?」お姉さんは膝をつき身を屈めて私の顔を覗き込みながら、戸惑った様子で聞いた。
「いない、かえってないの」私がそう答えると、お姉さんはますます困った顔をして少し悩む素振りを見せると私の手から弁当を取り上げた。
そして私の手を引いて立たせると「じゃあお母さんが帰ってくるまで、ここで待ってようか。お弁当あたためてあげるからね」そう言って店のスタッフルームに連れていった。
スタッフルームで休憩していたらしい女店員───こちらは少しおばさん───にお姉さんが事情を説明すると、おばさんは気の毒だと言わんばかりの悲しげな顔で何度も頷いて、私を椅子に座らせた。
お姉さんが温めた弁当とお箸を私の前に置いてくれると、おばさんが心配そうに私に質問を繰り返した。
名前はなんというか、家はどこか、お母さんはどこか、迷子マニュアルに書いてありそうな質問ばかり───そんなマニュアルがあればだけど。
私は自分の名前とお母さんの名前、家の場所、お父さんが居ないこと、食事は夜に1回だけであることなんかを順番に答えた。
答えを聞くたびにおばさんはコク、と頷き「かわいそうに」と言った。
“かわいそうに”の意味がわからなかったけど、私は空腹を満たすことが出来て満足だったから別に気にならなかった。
そして満腹になった私はいつの間にか眠ってしまい、気付くとお母さんの腕の中で外だった。
外は真っ暗で周りがよく見えなかったけど、見上げた先のお母さんの顔がなんとなく満足そうな笑顔のように見えた。
久々のお母さんの抱っこが気持ち良くて、私は目を閉じ寝たふりをしていた。
お母さんは私が起きたことに気付かずに家まで帰り着くと、私を布団に寝かせてまた何処かへ出掛けていった。