てとてと
サンダル履きで庭に出たら、月明かりでうっすらと紫陽花が見えた。
いっぱい叱られた後だから眠れない。
今日の午後、お向かいに住む同い年の直人と一緒に近くの河川敷へ行った。川の端っこで、小石を集め、飛ばし投げをしただけ。毎年二家族一緒にバーベキューをする場所だ。
梅雨の合間、今日久々にお日様が顔をみせてくれた。やっと外で遊べるって、直人を誘い二人で出かけた。それで直人と私は、両方の親から大目玉。
直人は男の子だからか、わたしよりうんと怒られて「ごめんなさい」って半べそをかいた。普段はひょうきんなおじさんに大声で叱られて。おばさんは目を三角に吊り上げて。わたしの両親も同じような剣幕で。
川遊びは危ないって言われていたけど。でも、でも、川の中には入らなかった。危ないことなんてしなかった。
誘ったのはわたしなのに、いっぱい怒られたのは直人。
直人の泣き顔を思い出したら悔しくなった。
お月様を眺め、縁側で両足をブラブラさせていたら、紫陽花の葉の下でなんかが動いた。なんだろう、猫かな?
目を凝らして見続けていると小さな影が飛び出してきた。走っているつもりなんだろうけど、覚束ない動きはゆっくりで、それはわたしの前でピタッと止まった。
十五センチくらいの角が丸まった身体に、野球ボールがちょこんと乗っかった、手足のある小さい変形雪だるま。
久しぶりだけど見るのは三度目だから怖くはなかった。裸足の膝上まで土で汚れている。昨日までの雨で土がぬかるんでいたからだろう。
白に赤いラインが二本の汚れた野球ボール。ラインがクルッと上に回転した。わたしを見上げたのかもしれない。その動きがどこかコミカルで、不思議な感じ。
『てとてと』は――走る姿からそうナマエをつけた――グーの手をわたしに向かって伸ばしてきた。
(んっと、何?)
拳はくいっ、くいっ、と、一歩ずつわたしに近づいてくる。わたしも右手を差し出した。
てとてとは、二本のラインを下に回し、私の手のひらに拳を重ねた。てとてとが拳を開くと、わたしの手のひらに小さな何かが落ちた。それが何なのかを見る前に、てとてとはくるっと背を向けて、庭端の暗がりに走り去って行った。前二度は周りを走るだけだった。向き合ったのも手を触れたのも今日が初めて。
わたしの右手に乗っかっていたのは、楕円形で薄茶色をした一粒の種だった。
翌朝、ぼやーっとしたままダイニングへ行くと、お父さんはもう朝の日課。お仏壇にお水をあげていた。そこには直人くらいの男の子の写真。わたしのお兄ちゃんだ。
お父さん……。
直人の泣き顔が浮かんだ。直人はごめんなさいって言ったけど、わたしは直人ばっかりって思ってるから、だからごめんなさいがまだ言えない。
「……行ってらっしゃい」
お父さんは大きな手でわたしの頭をぽんぽんして、大丈夫? と言いたげな目で見て出かけていった。
右手が一粒の種をぎゅっと握ったままなのに気がついた。
「ねえ、お母さん、これ……」
台所で握っていた手のひらを開いてみせたら、お母さんは、「あら? なんの種?」って。
そんな事聞かれてもわかんない。私が黙り込んでいたら、「植えてみましょうか」って。
お母さんは小さな鉢を探して種を植えてくれた。
一週間したら芽が出て、葉っぱの数が増えて緑の茎が伸びだして。
一月しないうちに小さな鉢じゃ窮屈そうに茎は長くなっていった。
見かねたらしいお母さんが庭の隅っこに植え替えてくれた。
広い土に移ったのが嬉しかったのかな? 茎はまた伸び続けて、わたしの頭を越えて、お母さんの肩くらいになった。そこで背丈が止まると、根元の葉っぱが枯れて、茎の上半分が枝分かれして横に伸び、大きな葉っぱがいくつも出てきた。
葉っぱの生え際にぽつんと丸い実が出来た。葉っぱ一枚に一粒の真珠玉。葉は雨が降ると端を丸め、強い風が吹くと全体を丸め、守るように実を包み込む。
日差しが強くなる夏になると、葉は厚みを増し、実は握りこぶしくらいの大きさになった。茎は――茎っていうより幹って呼ぶのが正しそう。灰色で一本の木になったんだもの。
「初めて見るけど、なんの種だったの?」
お母さんたちは不思議そうに聞いてくる。でも、わたしは答えられない。てとてとにもらった。って言っても信じてもらえなさそう。二年前初めててとてとを見た時、驚いて指差して泣いたのに、お母さんには見えないみたいだった。
秋風が吹くようになると実は褐色になり、十センチくらいの丸が潰れた形になった。硬い殻のところどころにひびが入っている。
実は数え切れないくらいで。「たくさんなったねー」って直人が言った。直人にならてとてとのこと、教えてもいいかなあ?
「あ、あのね……」
※ ※ ※
「ふーん、きっと未央は夢を見たんだよ」
直人はケラケラと笑い信じてくれない。だから、ちょっとイジワルを言ってみたくなった。
「直人はあの時怒られて、どうしてごめんなさいをしたの?」
「パパとママがとっても心配したからだよ」
「わたしが誘ったからだってどうして言わなかったの?」
「……ダメって止めなかったからだよ」
「どうしてダメなの? 今年もバーベキューしたし、時々散歩にも行くのに」
「大人が、パパ達が一緒ならいいんだよ」
どうして子どもだけじゃダメって言うんだろう。
わたしがなんで、なんでを繰り返したら、直人は「もう、うるさい!」って帰っちゃった。最後に「未央はどうして素直にごめんなさいって言えないの?」って怒って。
わたしはまだお父さんたちに「ごめんなさい」が言えてない。直人も怒らせちゃった。言えてない「ごめんなさい」が二つになっちゃった。
だってみんな言う前に怒っちゃうから。先に怒られると「ごめんなさい」がちぢこまっちゃうんだもの。
その時、てとてとの実のひび割れが指先くらいのかけらになって、ぽろぽろと落ちた。覗いたら中は空っぽ。かけらの跡が顔のように見えて、わたしをにらんだり、笑っているみたい。
今からでも言った方がいいのかな?
その月最後の土曜日、お母さんと買い物に出た帰り。
「ね、あのね、春、川で遊んで直人と二人叱られたでしょ?」
「ああ、そんな事もあったわね」
「あのね、誘ったのはわたしで、直人は泣くほど怒られて、わたしは……」
なんでだろう。「ごめんなさい」って言いたいのに、言葉じゃなくて涙が出てくる。
買い物袋を持ったお母さんの声が小さくなった。
「あそこはお兄ちゃんが溺れた場所だから……」
つないでいたお母さんの手がぎゅっと強くなった。
「ちょっと強く叱りすぎたよね」
お兄ちゃんが川で……五年前のわたしは四歳だ。お兄ちゃんの事はほとんど覚えていない。お母さんたちもあんまり話してくれなかった。
言葉にならないいろんなものが頭の中に浮かんできて、嗚咽が止まらなくなってきた。
「でも、お盆になると帰ってくるような気がして、賑やかに迎えたくて毎年あそこでバーベキューをしてるの。月命日にも出来るだけ行くようにしてたの。未央にもそろそろお兄ちゃんのこと、教えておかなくちゃね」
どうしてかな? (ああ、そうだったのか―)って思えた。
「……お兄ちゃんは……野球が好きだった?」
お母さんの足が止まった。驚いたようにわたしをじっと見て、それから、とっても優しい目になって頷いた。
「ねえ、お菓子とケーキを買ってもいい? 夜に直人も一緒にお兄ちゃんのお話を聞きたい」
そして、直人に、「ごめんなさい」って言おう。
夜、直人とわたしの家族が家の庭が見える部屋に集まった。
私は直人とおじさんたち、お父さんたちに本当の「ごめんなさい」が言えた。それからてとてとの話をはじめたら、みんな、不思議そうな顔をしたけど。
「お兄ちゃんは、時々お家に帰って来ていたんじゃないかな。ごめんなさいが言いたくて……」
そう言ったら、みんな一斉に黙り込んじゃった。
しばらくして立ち上がったお父さんが、小さなろうそくが入った箱をお仏壇から取ってきた。
庭に出ると、てとてとの実の中に一本ずつろうそくを立て、灯りをつけていった。
「これは未央が直人に言った『ごめんなさい』の光」
「これは未央がもう子どもだけで川に行かないと思えるようになった光」
隣に座っていたお母さんが、立ち上がって庭に出た。お父さんからろうそくをもらって同じように灯りをつける。
「じゃあ、これはお兄ちゃんの事故をきちんと話せなかったお母さんの『ごめんなさい』の分ね」
それを見ていた直人のママが凄い勢いで、バタバタと玄関から庭にまわり出た。
「私にも一本ちょうだい。直人を頭ごなしに怒鳴りつけた後、あんまりいい気分じゃなかったのよねー。怒りんぼで『ごめんなさい』の光にするわ」
そうしてみんなが庭に出て、てとてとの実にろうそくを灯していった。
直人はわたしにダメって言えなかった、『ごめんなさい』
おじさんは、わたしを庇った直人の気持に気づけなかった、『ごめんなさい』
「ごめんなさいばっかりじゃ、なんだか気分が盛り上がらねーなぁ」
おじさんがムスッと顔をしかめたら、お母さんとおばさんが笑い出して。
「じゃ、ありがとうも灯してみるか? 未央がごめんなさいを言ってくれたことへの『ありがとう』だ」
お父さんの言葉で、その後は、いろんな『ありがとう』の光が灯っていった。
誰もてとてとのことには触れない。てとてとを信じてくれなくてもいいかなって思った。だって、てとてとの木はわたしの目の前にちゃんとある。
わたしのありがとうは、『てとてと、種をくれてありがとう』だ。
てとてとの木と一緒に、わたしの中に『ごめんなさい』と『ありがとう』が育ったような気がしたから。
思っても口に出せなかった気持が、てとてとの木と一緒に育って言葉になった。
ぽろぽろと剥げ落ちたかけらのあとから光がもれて、てとてとの木はまるでたくさんのジャックランタンの木みたいだ。
それを見ながら直人とわたしはお兄ちゃんの話をいっぱい聞いた。てとてとも庭で聞いているのかも。
一つの思い出話が終わるたび、秋風にジャックランタンが一つ、また、一つ消えていく。
いつの間にか庭は真っ暗に。
その年の冬が終わって、てとてとの木は枯れた。
あれ以来てとてとを見ることもなくなった。
◆◇◆◇◆◇
五年生になった春、直人は新しいグローブと野球ボールを買ってもらった。わたしがせがんだら、庭先でキャッチボールの相手をしてくれた。
「お花は踏んじゃだめよー!」
わたしがボールを追いかけて、花壇を踏み越えるたび、お母さんが怒声を上げる。
「踏んでないよねー?」「大丈夫だよー!」
背中に問いかける直人に返事をしながら、わたしはとり損ねたボールを追いかけて庭の隅っこへ走った。
真新しい野球ボールをつかもうと右手を伸ばしたら――紫陽花の葉陰から土まみれの野球ボールがころころっと転がってきて、直人のボールにぽんっとぶつかって止まった。
ボールの横向きになった二本のラインの形が、てとてとの実に似て見えた。けど、それはもう手足のついた雪だるまじゃなく――ただの汚れた野球ボールだった。
(おしまい)
榎橘先生、主催お疲れさまです。
参加させていただきありがとうございました。