ヒラサカヤのオニババ
1
ボクの周りで、最近良く耳にする言葉だった。
その「ヒラサカヤ」という場所には、何でも、凶悪なオニババが住み着いていて、立ち寄った子供を手招きして、うっかりついて行ってしまうと食べられてしまうらしい。
それを聞いたとき、背筋に寒気を覚えた。世の中には恐ろしいのがいるもんだ。
「それでな、オレはそこから命からがら逃げ出してきたんだぜ。マジ、怖かったんだからな」
ガキ大将のジロが身振り手振り大げさに話している。
「ジロちゃん、それなんなの?」
言ったのはこのグループの仲間の一人、ミチである。彼は、ジロが右手で握っている何かを指さしていた。
「あ、これか?」
それを聞いて、ジロの顔は途端に自慢気になった。
「戦利品」
「せんりひん?」
皆が復唱する。戦利品の意味すら分からない奴も居たし、なにより、どこの戦利品なのかも分かっていないのだ。
「だから、そのオニババから手に入れたんだ、オレが。命からがら。もう、死ぬかと思ったんだぜ。足がちぎれるくらい全力疾走したから」
どうだ、と言わんばかりに体をのけ反る。
「すっげー。ジロちゃん、さすがー」
まだ幼い子ども達は彼の手柄を純粋に讃えていたが、ボクとかミチとか、ジロと同い年の奴らは皆疑問に思っていたはずだ。
「ジロちゃん、なんか怪しくない?」
「さあ、ボクは分からない」
ミチの問いかけにボクは興味なさ気に答えた。けれども、心のなかではミチの言葉に賛同していた。
「ねえねえ、ジロちゃん」
「ん、どうした」
「オニババって、何処にいたの?」
「あー、そりゃ言えない。こりゃ、オレの秘密。でも、連れていってやってもいいぜ」
ジロはやっぱり誇らしげで、人差し指で鼻の下をこすった。
2
そうして、ボクとミチとジロは、その「ヒラサカヤ」に行くことになった。その道は、普通の田舎道。ボク達がいつもよく通るような道で、とてもそんなところにオニババが居るとは思えない。
そうやって、脇道にそれたり、土手を上ったり下ったり、ちょっとした探検隊気分を味わいながら、ボク達は進んでいくのだった。
「ほら、アレ」
ジロが急に立ち止まって、むこうを指さした。
「ヒラサカヤ…あ、ほんとだ」
そこには確かにヒラサカヤがあった。
少し大きい家くらいの大きさで、ボロボロの木造建築。…良くある、田舎の駄菓子屋だと思ってもらって構わない。
「な、あそこにオニババが居るんだよ」
ジロはそんな事を言うと、また歩き出す。
「ねえ、入ってみようよ」
「え?入るの?」
ミチはあまり乗り気ではなさそうだったが、ここまで来たのだからと、最終的には渋々承諾したのだった。
3
「…」
「あの、すみませーん」
「おい、声出すな!」
ミチが申し訳なさそうに言った呼びかけを、ジロは低く小さい声で遮った。
「静かに、しろ」
眉間にシワを寄せたジロは、人差し指を自分の口の前で立てる。かなりいらついているようだ
「ごめん…」
ミチがそういうと、奥の方から声がした。
「オニババ?」
「ああ」
ボクの問いかけにジロはすぐ答える。同時に、「逃げるぞ」とボクの腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと」
「はやくしろって」
ボクとジロが引っ張りあいをしているところに、その”オニババ”がやって来た。
「はいはい、どうしたの?」
出てきたのは、顔も手もシワだらけの、おばあさん。
「げっ」
「えっと、ここって」
ボクが次を言おうとしたところで、おばあさんが驚いたように言った。
「あらまあ、そっちのぼく、あの時の子でしょ?」
「ち、違います」
ジロだ。やっぱりそうだったんだ。だって、ここは、ただの駄菓子屋じゃないか。
子供の憧れ。お菓子がいっぱい並んでいる。ボクがもっと小さいころ、100円を貰うと一目散に駆けていったものだ。10円のおかしとか、20円とか、高いものになるとそれしか買えなかったりするが、とにかく、そこは夢のような世界だった。
「駄菓子屋ですよね」
「え?…そうそう、ここは駄菓子屋よ。何か欲しい物があったら、言ってね」
おばあさんはボクににこやかな表情を向けると、ジロに向き直った。
「名前はなんていうの?」
「えっと…」
「ジロちゃんです」
「あ、おい」
しどろもどろしているジロの横で、ミチが答えた。
「そう、ジロちゃんね」
「…ちゃんとしたのは、二郎」
「いい名前じゃない」
ぶっきらぼうに答えるジロにも、おばあさんは優しい表情を向けていた。
「お菓子が欲しかったのは分かるけど、お金を払わないで持っていくのは、泥棒なの。分かるでしょう?」
「…うん」
「あの時はおばあちゃんもかっとなって怒っちゃったけど、ごめんなさいね」
「…」
「でもね、おばあちゃんは、皆にすこやかに、元気で真面目に育ってほしいの。分かってくれるかな?」
「…」
「だから、人を悲しませるような事は、しちゃいけないよ。分かった?二郎くん」
「…ごめんなさい」
ばつが悪そうに聞いていたジロだったが、彼はついに、謝った。いっぱいに頭を下げた。
「分かったらいいのよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「ほらほら、皆が居るんだから。泣いたら恥ずかしいでしょ?」
「う…ご、ごめんなさぁい」
とうとうジロは泣き出した。ボクもミチも見たことがない、ジロの泣き顔だった。初めて、ボクは彼のことをいい奴だと思った。
「よしよし」
おばあさんは、そのシワだらけの、だけれど、とても暖かな手で、ジロの頭を撫でた。
その場所だけは、時間がとてもゆっくり流れていた。
4
帰り道。
「これだけで良かったのかな?」
「いいんだよ。食べきれねえし」
ジロはすっかり調子を取り戻していた。といっても、あの後しばらくは泣きっぱなしだったけれど。
ボク達はおばあさんからもらった袋を手に持って、普通の道を歩いて、家まで帰っていた。
「良かったじゃん、ジロちゃん」
「うっさいな。なまいきだぞ」
言葉は乱暴だったが、ジロは笑っていた。ボクも笑った。
おばあさんは、ジロが盗んだお菓子を「プレゼント」と言って許してくれた。彼が反省したからだと言う。そうして、好きなお菓子を持って行ってもいい、とまで言ってくれた。それは、いい子たちへのご褒美だとか。
「全然オニババなんかじゃ無かった」
「優しい人だったもんね」
「そうだな」
夕焼けが綺麗だ。赤と青のグラデーションが、少しずつ色を変えていく。
「また、今度はみんなを連れてこようぜ」
ジロが言った。
「お金は?」
「持ってくるに決まってんだろ!」
ジロが怒鳴ると、皆で大笑いした。カラスもかあかあと鳴いている。
そうしてボクたちは、たくさんの宝物を手に入れた。
田舎の穏やかな光景。懐かしの駄菓子屋。こんな優しいおばあさんの怒った姿を見てみたいものです。ジロくんが「オニババ」と感じたのだから、相当なんでしょうね。優しい人ほど怒ると怖い、っていうことでしょうか。兎にも角にも、皆笑って終われて良かった。