第8話 追ってきた侍女と、〈暁の灯〉
「お久しぶりでございます、お嬢様」
黒髪の人は静かに立ち上がって深く一礼した。 屋敷にいたときと同じ、少しも乱れのない所作だった。
「セ、セラ……!」
私は思わず一歩後ずさった。 セラは私付きの侍女だ。私が物心ついた頃から、ずっとそばにいてくれた人だった。
連れ戻しに来たのだ。 それ以外に、セラがここにいる理由はない。
「私、帰らないから!」
食堂にいた何人かの客が振り返った。 セラは表情を変えずに椅子を引いて私に座るよう促した。
「存じております。どうぞおかけください」
「……連れ戻しに来たんじゃないの?」
「旦那様からいただいた命は、お嬢様を連れ戻すことではございません」
セラは私の目をまっすぐに見た。
「死なせるな。それだけでございます」
私は立ち尽くしたまましばらく動けなかった。
卓に向かい合って座ると、女将さんが温かいスープを運んできてくれた。 セラはそれに手をつけずに淡々と話し始めた。
「お嬢様がお屋敷を出られた翌朝に、旦那様の命を受けて発ちました。国境を越えたところで行き先の見当はついておりましたが、確証を得たのはロンデルに着いてからです」
「どうして分かったの?」
「冒険者ギルドの試験で結界を割った赤毛の新人がいる、と酒場で噂になっておりましたので」
顔が熱くなった。 セラはほんのわずかに目を細めた。
「それと本日の昼には、ガルド商会で白金貨を出した若い娘がいるという噂も耳にいたしました」
「……それも、もう噂になってるの?」
「店の者は口を閉ざしても、店の前の通りには目が大勢ございます。焦げた服の娘が、仕立てのいい赤いローブを着て出てきたのです。察する者は察します」
私は思わず自分のローブを見下ろした。 ボルドさんの隣にいつもいる男が、どうして畑の場所まで知っていたのか。今になって分かった気がした。
「それで、あの……父様は、怒ってた?」
セラは少しだけ間を置いた。
「いいえ。旦那様がおっしゃったことは、いつかお嬢様ご自身がお聞きになるべきかと存じます。私の口からお伝えするものではございません」
それ以上は、何度聞いても教えてくれなかった。
食事を終えて部屋に戻ろうとしたときセラがふいに足を止めた。
「お嬢様。こちらでお待ちください」
そう言うなりセラは宿の裏口から音もなく出ていった。 ほんの少しして、裏の路地から短い悲鳴と何かが倒れる音が聞こえた。
慌てて裏口から覗くと、セラが男を一人地面に押さえつけていた。 男の手から、細い針金の束が落ちている。鍵を開ける道具だ。
「夕方から宿の裏をうろついておりました。お嬢様のお部屋の窓を何度も見上げておりましたので」
男は腕をひねり上げられて、うめき声を上げていた。 騒ぎを聞きつけた女将さんが衛兵を呼んで、男はそのまま連れていかれた。
セラは服の埃を払いながら私に向き直った。
「お嬢様。ここにお泊まりになるのは、今夜限りになさってください」
「でも、安い宿のほうが冒険者らしいし……」
「冒険者らしさとお命は、比べるものではございません」
ぴしゃりと言われて私は何も言い返せなかった。 セラは昔、父の部隊で斥候をしていたと聞いたことがある。今の身のこなしを見て、それが本当だったのだと初めて実感した。
翌日、私はセラを連れてガルド商会を訪ねた。
事情を話すと、ハンスさんはすぐに動いてくれた。 紹介されたのは、ギルドから歩いて五分ほどの路地にある二階建ての一軒家だった。石造りで壁が厚く、裏には小さな中庭がある。
「元は引退した冒険者が住んでいた家でしてね。中庭で稽古ができるようにと、塀を高く作ってあるのです」
「ここにします」
中庭を見た瞬間に決めていた。 ここでなら、人目を気にせずに炎の練習ができる。
家賃は月に銀貨三十枚。商会の預かりから払えるように、ハンスさんが手続きをしてくれた。
その日の午後、ギルドでティムくんに事情を話した。
「一軒家……ですか」
「うん。それでね、ティムくんも一緒に住まない? 部屋は四つあるから」
ティムくんは目を丸くしてから、ぶんぶんと首を振った。
「そ、そんな! 僕は冒険者用の相部屋で十分です!」
「その相部屋、何人部屋なの?」
「……八人です。夜中にいびきがすごくて、あんまり眠れないですけど」
私の後ろに控えていたセラが静かに口を開いた。
「ティム様。パーティーの補助役が寝不足では、お嬢様の炎が狙いを外します」
「う……」
「それにお嬢様の周りには、よからぬ者が集まり始めております。一人でも多く、信のおける者がそばにいたほうがよろしいのです」
ティムくんは長いこと迷っていた。 それから観念したように小さく頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
その日の夕食は、セラが作ってくれた。 新しい家の台所で、市場で買ってきた野菜と鶏肉を煮込んだだけの簡単なものだ。それでも湯気の立つ鍋が卓に置かれた瞬間、ティムくんが息を呑んだ。
「こんなにちゃんとしたご飯、村を出てから初めてです……」
ティムくんは一口食べるたびにほうっと息をついていた。 セラは黙って二杯目をよそってあげていた。
私は卓を囲む二人を見ながらふと思った。
実家の食卓には、いつも偉業を成し遂げた家族が並んでいた。私はその端で、自分の空白ばかり数えていた。 今のこの卓には、私が自分で選んで、自分の手で集めた人たちがいる。
「リリスさん、どうかしました?」
「ううん。おいしいね」
私はスープをもう一口すくった。
翌朝、セラも冒険者登録をした。
実技試験の試験官は、今日もガスパルさんだった。 セラが目にも留まらない速さで木の的の急所を三つ切り裂くと、ガスパルさんは咥えていたパイプを口から離した。
「お前、元は軍の斥候だな」
「昔の話でございます」
「……あの赤毛の新人の連れか。道理でな」
ガスパルさんはそれ以上何も聞かずに、合格の判を押した。
受付に戻ると、ミーナさんが一枚の羊皮紙を差し出してくれた。
「三人でパーティー登録をされるなら、パーティー名を決めてくださいね」
「パーティー名……」
考えたこともなかった。 冒険譚のパーティーには、いつもかっこいい名前がついていた。いざ自分でつけるとなると、何も浮かばない。
「あの」
ティムくんがおずおずと手を挙げた。
「〈暁の灯〉はどうですか」
「暁の、灯?」
「リリスさんの炎って、すごく明るいじゃないですか。夜明けの空みたいに。僕、ゴブリンに囲まれたとき、あの炎を見て助かったって思ったんです」
ティムくんは顔を赤くしてうつむいた。
「だから、夜明けを照らす灯りみたいなパーティーになれたらいいなって……」
胸の奥が温かくなった。 私の炎を見て、助かったと思ってくれた人がいる。
「〈暁の灯〉。それにしよう」
セラも静かに頷いた。 ミーナさんが羊皮紙にその名前を書き込んでにっこりと笑った。
「パーティー〈暁の灯〉、登録完了です!」
その夜、新しい家の中庭で私は一人で炎の練習をしていた。
撃つ。外れる。撃つ。少し逸れる。 四発目で膝が震えて私は地面に座り込んだ。
縁側に腰かけて見ていたセラがふと口を開いた。
「お嬢様。一つよろしいでしょうか」
「なに?」
「お嬢様は炎を撃たれる前に、必ず息を止めていらっしゃいますね」
私は顔を上げた。 気づいていなかった。
「弓兵も斥候も、狙いを定めるときは息を止めずに細く長く吐き出しながら放つよう教わります。止めた息は、体を固くいたしますので」
「細く、長く……」
私は自分の手のひらを見つめた。 小さな炎が出せない。小さくしようとすると、消えてしまう。
でも、小さくするのではなく。 細く、長く、なら。
「……セラ、もう一回だけやってみる」
「魔力が残っておりませんでしょう。明日になさいませ」
「じゃあ、明日」
私は夜空を見上げた。 胸の中で、何かの形が見え始めていた。




