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香水  作者: Chroma Nyx


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2/2

森川 花

すべての始まりは、油と埃と煙の匂いが混じり合う、初夏の解体工事現場だった。


重機の唸り声が腹の奥まで響き、怒号と金属音は朝から夕方まで止まらない。

男の多い現場には、乱暴な言葉と豪快な笑い声が飛び交い、汗と苛立ちが、梅雨前の湿った空気の中に溜まっていく。


高宮にとって、そこはただの“金を生む場所”でしかなかった。


組の系列企業が、金払いのいい元請け会社と下請け契約を取ってきた。

この元請けは、出し惜しみしない上客だ。

その現場の代理人として、組は、若い衆が最も恐れる男――高宮を据えた。


現場は、「金だけでつながる」ための場所だった。

馴れ合いなど、必要だと感じたことすらない。

仕事で結果さえ残していれば、次の仕事は勝手に降ってくる。

高宮は、元請け会社の担当であっても平気で呼び捨てにし、雑談はすべて無駄だと思っていた。


そもそも、現場の人間は、高宮と接触することを嫌がる者が多かった。

192センチの長身に、鍛え上げられた身体。

鋭い目つきに、色気の漂う顔立ち。

異なる女と歩く姿の目撃談が物語る、数々の“武勇伝”。

堅気を装ってはいるが、長袖シャツの両腕の隙間からのぞく入れ墨が、そうではないことを雄弁に語っていた。


高宮が少しでも声を上げれば、現場も、空気も、萎縮する。

怒鳴る。殴る。詰める。


――それが、この男の“常識”だった。



そろそろ梅雨が始まるころ、現場に、見たことのない女が現れるようになった。


ヘルメットをかぶり、胸にバインダーを抱え、現場と図面を見比べながら、

男だらけの空間の中を、まるで最初からここが自分の聖域であるかのように歩いている。


高宮に挨拶にも来ない、生意気な女。


怯えるでもなく、媚びるでもなく、ただ静かに、真っ直ぐに、高宮の前を通り過ぎていった。

悠然と前を通る横顔に、高宮はほんの一瞬だけ、目を向けた。

通り過ぎるその一瞬だけ、視線が合った気がした。


それだけのはずだった。


だが、その一瞬で、胸の奥に、苛立ちとは違う小さな違和感が残った。


――なんだ、この女は。


怖がらない。

避けない。

忖度もしない。


それが、高宮には妙に引っかかった。



森川 花は、元請け会社の新しい渉外担当として、中途採用された女だった。

工事の知識は乏しく、現場と下請けの間を行き来しながら、職人たちに次々と質問をぶつけていた。



やがて梅雨が明け、外気温が38度を指す猛暑日の昼休み。

現場の端では、職人たちが地面に腰を下ろし、現場用の扇風機が送りつける生ぬるい風を浴びながら、煙草をふかしていた。


「アイス、食べませんかー?」


花が、両手にスーパーの袋を抱え、運転席から身を乗り出した。

袋の口から、ドライアイスの白い靄が冷たそうにこぼれる。


「おー!花ちゃん、さすが気が利くなぁ!」


職人たちが一斉に駆け寄った。


その一部始終を車内から見ていた高宮のもとへ、花がアイスの袋を提げて歩いてくる。


「高宮さん、でしたっけ?一つどうですか?」


――でしたっけ?


一か月半も顔を合わせていて、名前すら覚えていないのか、と胸の奥が少しだけざらついた。

思い返せば、初対面の挨拶すら、きちんとされていない。


「内海組の高宮だ。」

「高宮さん!どっちにします?」


高宮は、少し呆気にとられた。

少しだけ声に圧を込めたつもりだった。

なのに、花は気にも留めない様子で、ずいっと間合いに踏み込み、高宮の顔の前にアイスの袋を突き出して、選べと言う。


「あ!!やっぱり、高宮さん、こっちね、バニラ!

わたし、チョコミント食べます!」


バニラのアイスを高宮の手に押し付け、「いっただきまーす」と言い残して、花はそのまま去っていった。


なんなんだ、あの女は……。


聞いておいて、選ばせず、勝手に決める。

高宮は、ほんのわずかな苛立ちを覚えた。



花は、それからもよく差し入れを持ってきた。

アイスだったり、コーヒーだったり、栄養ドリンクに「マカ」と油性ペンで殴り書きして、職人たちの笑いを攫っていくこともあった。


花は時々、職人たちに混ざり、コンクリートの縁に腰を下ろして、同じように休憩するようになっていた。



熱中症アラートが連日で出る、真夏のある日。

いつもの昼休み、職人たちは嫁の誕生日の話をしていた。


花はペットボトルの水を一口飲み、何気ない調子で言った。


「え、わたし、実は、あさって!

旦那からはプレゼントの期待値ゼロですね。

皆さんからのプレゼントの期待値は?」


「ゼロだな!」


まるで、当たらないスロットマシーンの回収率のように、職人たちの笑いを誘っていた。


高宮は、一瞬だけ視線を向けた。

そのまま何も言わず、煙草に火をつけ、煙を吐いた。


――くだらねぇ。


それなのに、高宮の中で、「あさって」という言葉だけが、妙に耳に残った。

その日の仕事が終わるまで、花の横顔が、何度も視界の端に引っかかった。



この時、高宮はまだ知らなかった。

この違和感が、やがて自分を、じわじわと変えていくことを。



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