あの日々の喫茶店と夏の珈琲
喫茶店に飲み残した夏
「いらっしゃい」
他の客が一人もいない店内に、店主の優しい声音が響く。駅から歩いて15分、小さな路地にある喫茶店。イブニングという名前なのだが、午後2時に開店して7時に閉店する少し風変わりな店だった。
「久し振りに来たけど、相変わらずだな」
幼少期からよく見ている店内を見渡し、そんな事を口にする。
「4時位にはそれなりに人が来るんだけどね。注文は何にする?」
皿を洗いながら、店主が苦笑しつつ返事をした。彼女が昔から纏っているふんわりとした雰囲気は大人になった今でもあまり変わってはいないらしい。未だこの喫茶店の店主が彼女の祖父だった頃、少ない小遣いを握り締めナポリタンをよく食べに来ていたことを思い出す。
「……ナポリタンとメロンソーダを」
「昔からそればっかり食べてたよね」
彼女が今度は普通に笑いながら料理を作り始める。幼馴染みの彼女の家に遊びに来ていた頃は彼女の祖父が調理するカウンターの前で料理が出て来るのをよく一緒に待っていた。高校になり彼女の祖父が病気で店を開ける事が難しくなっていった頃、彼女は私にこの店を継ぐからその時にはまた食事をしに来て欲しい。そう言われてからは二人とも地元を離れ別々の道を歩むことになった。そして社会人になった今、彼女からの連絡を受け数年ぶりの故郷へと戻って来たのだった。子供の頃遊び場にしていた場所は殆どが立入禁止になっていて、すっかり変わってしまった事に寂しさを感じもしたが、イブニングという喫茶店だけは変わらずそこにあった。
「お待たせしました」
そう言って店主が出したナポリタンとメロンソーダは子供の頃に食べた物とよく似ていた。懐かしい思い出の味を楽しみ終えた頃、一杯の珈琲を差し出された。
「これは?」
「食後の珈琲はサービスだよ。お爺ちゃんは珈琲が苦手な私達の為に珈琲を出す代わりに少し代金を割引してくれてたみたい」
いい香りがするそれをゆっくりと飲み干していく。昔は苦手だったこの味も、今飲むととても美味しいと感じる事ができる。
「どう?」
「とても美味しかったよ」
空になったカップを置いて、一つ質問をする。
「そう言えば、何で喫茶店を継ごうと思ったんだ?」
「覚えてない?」
聞いた筈が聞き返され少し困惑する。少し考えたが、見当がつくことは無かった。
「昔言ってたでしょ?この喫茶店は私達にとって秘密の隠れ家みたいな場所だって」
昔に言った事は覚えていないが、隠れ家のようだと感じていたのは確かだった。午後5時になると他の客は殆ど居なくなり、私達の座っている席は彼女と私だけの空間になる。誰よりも大好きな人と、二人静かに過ごせる場所はその時間のこの喫茶店だけだったから、二人だけの秘密基地に居るようだと。
「まさか、それで?」
「まあ、大きな理由の1つっていうだけなんだけどね」
少し気恥ずかしそうに笑う彼女を見て、伝えたかった事を思い出した。会計を済ませ、入り口の扉に手を掛けると彼女が1つに纏めた長い髪を揺らして聞いてきた。
「美味しい珈琲入れて待ってるからさ。また、会いに来て」
懐かしの店に足を運んだもう一つの理由を気付かれている事に苦笑しつつも、少し振り返って頷く。
「必ず、また来るよ」
店を出ると、夕立ちが振り始めていた。持っていた折りたたみ傘を開いて雨の降る路地へと足を踏み出す。大切な想い出と、いつか思い出になる今日に優しく包まれながら。




