努力が届かない会社で、僕は“構造”を知った 第1章:沈黙する評価
タイトル:努力が届かない会社で、僕は“構造”を知った
第1章:沈黙する評価
空調の効いた会議室に、微かにコーヒーの香りが残っていた。窓際に座る課長がモニターに目を落とし、ファイルをめくる音が淡々と続く。藤井 湊は、手のひらに軽く汗をかきながら、ノートとペンを膝の上に置いた。
四半期の評価面談は、毎回どこか苦い。何を言われるのかではなく、何が言われないかを気にしてしまうからだ。
「うん、案件の量はすごいね。正直、年間広告案件のほとんど、95%は藤井くんが見てるって話も聞いてるよ」
課長はそう言って、ふっと口元をゆるめた。その一瞬に、湊はなにか救われるような気持ちになったが――続いた言葉が、それを打ち消した。
「でもさ、やっぱりプレゼンスが弱いんだよね」
プレゼンス。
その言葉の意味を、湊は何度聞いてもつかみきれない。
「あと、他部署との連携ってあったっけ? 戦略企画とか、営業サイドとどう絡んでる?」
言葉が詰まる。連携の暇などなかった。広告案件の進行、入稿ミスの修正、クライアント対応、レポート作成……毎日がその繰り返しだった。休みの日もSlackは鳴り続け、終電のホームでモバイルPCを閉じる日々。なのに、チームの“外”との接点を求められるとは。
「……いえ、特には」
そう答えるのが精一杯だった。課長は「なるほどね」とだけ返し、目を戻す。
湊は黙って頷いた。言い返す言葉が見つからなかった。
プレゼンス。
他部署連携。
いつからそれが、評価の物差しになったのだろう。
面談を終えて席に戻ると、デスクの上に置きっぱなしだった社内報が目に入った。表紙には「戦略企画部・野本誠マネージャーのインタビュー」の文字。
野本誠。社内でも有名な“頭が切れる男”だ。二つ上の31歳。湊と同時期に入社したはずだが、既に戦略企画部でマネージャー。経営層との会食に頻繁に呼ばれ、意思決定に直接関与していると噂されている。
「野本さんって、やっぱすごいっすよね。『言わないけど知ってる』感、マジで異次元っす」
そう言ってきたのは、後輩のミカだった。日下部ミカ。明るく社交的で、SNSでは社内のリアルをちょっと毒混じりでつぶやくのが人気らしい。最近、何かをコソコソやっている様子がある。
「先輩、さっきの面談どうでした?」
「……まあ、いつも通りだよ。頑張ってるけど、見えてないってさ」
「それ、うちの会社あるあるですよね。“構造”見えてないと、どんだけ働いても意味ないっていうか」
構造? その言葉に湊は首をかしげた。ミカは一瞬口をつぐんだが、すぐに苦笑して誤魔化した。
「え、いや、なんでもないっす」
だが、湊の中で“構造”という言葉だけが残った。何かがある。それを知らずに、自分はただ数字をこなす歯車として、空回りしているのではないか。
その夜、社内SNSにアップされた野本のインタビューを読んで、湊は確信する。
「今、ビジネスで求められているのは“個の能力”じゃなく、“構造を読める目”です。組織がどう動き、誰がキーパーソンか。情報と行動がどう流れるかを掴んでいる人が、意思決定に近づける」
まるで、彼の現在地を象徴するような言葉だった。湊はそのページをスクリーンショットし、無意識にスマホのメモに貼りつけた。
評価されないのは、能力じゃない。
“構造”を見ていないからだ――
翌朝、出社した湊は、エレベーター前で誰かとすれ違った。香水の匂い。日下部ミカだった。スマホを見ていて、何かの画面を即座に閉じる。
「あれ? なんか見てた?」
「えっ、いや、別に……。“構造リテラシー”ってやつ、ちょっと面白そうで」
「構造リテラシー?」
「先輩、知らないっすよね、やっぱ……。まあ、見たらわかりますよ。世界が、全然違って見えるから」
そう言ってミカは笑った。
湊の心の奥で、何かが小さく軋んだ。無力感と焦燥感、そして言いようのない好奇心。
“構造を読む目”。
果たしてそれは、自分がこの会社で評価されるための鍵なのか。それとも、もっと根本的な“何か”を暴く視点なのか。