登場人物たちとプロローグ
登場人物:
藤井 湊/29歳
都内IT系企業、広告運用部所属。入社7年目。
誰よりも働いているのに、評価は「普通」。給与も微増。
最近、同僚が“うまくやってるだけ”で先に昇進したことで限界を感じている。
野本 誠/31歳
別部署の戦略企画部。経営層と繋がっていて情報に詳しい。
「構造の壁」
藤井湊は、いつも最後にオフィスを出る男だった。29歳、都内IT系企業の広告運用部に入って7年。どんな案件も責任感をもってやりきる。それでも、評価は「普通」だった。
「湊さん、あの資料、昨日の夜に直してくれてましたよね?やっぱ、助かります」
後輩の日下部ミカがそう声をかける。彼女は入社3年目。無邪気に笑いながら、机の前に立っていた。
「いや、大したことないよ」
湊はそう言ったが、内心では虚しさがこだましていた。
――何が“大したことない”んだ。深夜まで残って修正したのは俺だ。クライアント対応も、炎上防止も、全部やってる。それなのに、評価は伸びない。給与もわずかに上がるだけ。
その思いに決定的な亀裂を入れたのは、先月の人事異動だった。
同期の高垣が、先に課長になった。
――あいつ、表面だけ取り繕って、実働は俺がやってたじゃないか。
憤りを抑えられず、湊はある夜、同僚の野本誠に声をかけた。野本は戦略企画部所属。社内でも特に経営陣との距離が近く、“知っているが言わない”側の人間だ。
「なあ、野本さん。正直聞きたいんだけど、俺が何か間違ってるのか?」
「間違ってはない。ただ、“合ってない”だけだな」
「……何に?」
「評価構造に、だよ」
野本はため息交じりに言った。「湊、お前は実務ができる。結果も出してる。だが評価は、もっと別のところで決まる」
湊は息をのんだ。
「それって、結局コネとか、ご機嫌取りがうまい奴が得するってことですか?」
「表面的にはそう見える。でも実際は、“評価構造の設計”が先にあるんだ。誰が評価し、何を見て、どう報告が上がるか。その構造の中で、評価されやすいポジションを取ったやつが勝つ」
湊は思わず拳を握りしめた。自分は、そんな“構造”なんて知らずに、目の前の仕事だけを必死でやってきた。
「悔しいだろ?でも、それを知らないままだと、何十年も“歯車”で終わる。そういう奴、たくさん見てきた」
野本はそれ以上は語らず、自席に戻った。
***
その週の金曜日。日下部ミカが一枚の紙を湊に差し出した。
「湊さん、これ……私が最近ちょっとだけ参加してる勉強会のやつなんですけど、良かったら見てください」
「勉強会?」
「“構造リテラシー講座”っていうやつで、仕組みを読み解く力を鍛えるんです。評価、報酬、意思決定……全部の“裏の仕組み”に気づけるようになるって」
湊は目を通し、ふと眉をひそめた。「これ、社外のやつ?」
「はい。SNSで見つけて、こっそり行ってて……でも、野本さんとかも前に少し話してたらしくて」
驚きだった。日下部が、そんな“構造”に気づこうとしていたこと。そして野本も、そこに繋がっていたこと。
湊の中で、なにかが動いた。
目の前の仕事だけじゃなく、その“構造”ごと、理解しなければならない。評価されるのではなく、評価される場所に立つには、まずその地図を知らなければならない。
「ありがとう。俺も……参加してみようかな」
その夜、湊は久しぶりに、心が静かだった。
目の前の霧が少し晴れたような気がした。
***
翌週。湊は講座の初回に参加し、驚愕した。講師は「組織における“見えない構造”」について語った。
「評価とは、あなたの成果ではありません。“成果が誰に届くか”で決まります」
「構造を知らない者は、努力が“吸い上げられる”側になります」
心臓がドクドクと鳴った。まさに、自分がそうだった。
ふと隣を見ると、日下部が静かにメモを取っていた。
湊は、筆を取った。今まで見てこなかった領域を、自分の手で書き換えるために。
自分が報われるためにではなく、同じように苦しむ誰かが、無駄に消耗しないように。
そして、いつかは――構造そのものを、作り直す側に回るために。