あおいなぎさ①
「空が綺麗ですね…」
放課後、遥か彼方まで広がる、雲一つ無い晴天を仰ぎ、私は小さな溜息をついていた。
…脳裏に思い浮かべるのは、かつて夢幻の中で邂逅したあの小さな背中。
…などと、神妙な始まり方をしてはみたが、特に深い意味は無い。
ただ何となく、広い場所から空を見たかった。それだけである。それだけで、私は普通は立入禁止の屋上で一人寛いでいた。決して、何処かの兄さんが久しぶりの発作を起こしてお手伝いに首を突っ込んだ結果、置いてけぼりを食らった訳でも無い。別に大掛かりなものでもないし、たまには発散させてあげないと可哀想ですから。ね。
「ん…」
暫し眺めていた細長い雲が、ちょうど視界を右から左へと通り過ぎた頃、胸ポケットに突っ込んでいた携帯電話が小さく振動し、メッセージの受信をお知らせする。
何は無くとも直ぐに取り出して、画面に映し出された名前を見て、思わず唇をもにょもにょとへんてこに動かしてしまった。
「『兄さん』」
送り主は当然。それはそうだ。自慢ではないが、私のこの9割の機能が意味を為していない可哀想な端末に好き好んで連絡してくる物好きなど精々家族と、兄さんと志乃さん、おばさんと、夕莉と……
…後は、何気に土方先輩か。
ああ、そうだ。クラスメイトの皆とも交換したんだった。『あおちゃん、メアド交換しよー!』などと、あんなに大勢の人に囲まれたのは、一体いつぶりだっただろう
か。そして何故、兄さんと夕莉は固くなる私を輪の後ろで腕を組んで眺めながらうんうん頷いていたのだろうか。あれが『後方腕組み彼氏』、というやつか。か、彼氏…。
………。
こほん。…しかし、思ったよりは、増えた、かな?
先日、私は無事進級して2年生になった。再会した頃の兄さんと、そして志乃さんと同じ2年生である。とはいえ、高校に入学した頃と比べれば、何かが大きく変わった実感も無い。
「ふふ」
などと、何を馬鹿なことを。自分が変わった事など、自分で一番理解しているだろうに。
己の浅ましさ故に兄さんに縋り、終いにはまた悲劇を繰り返しかけて、奇跡によって取り戻した。それが、私と兄さんの長い様で短かった1年のお話。
『待たせてごめんな。校門で待ってるから』
「わ、か、り、ま、し、…たっ…」
そして結果、今の私は兄さんの一言で一喜一憂するおめでたい女と化している。
覚束ない手つきで操作していた画面を落とした瞬間暗闇に映り込んだ、このだらしないニヤけ面がその証拠だ。
「よいしょ…」
さて、兄さんから連絡が来た以上、屋上に長々と居座る理由も無い。
居座ってもいいが、そうしたら兄さんに私が何処にもいないと心配されるかもしれない。…それはそれでいいかもしれない…などと片隅で考えてしまったのはここだけの秘密。
立ち上がり、スカートを手で軽く払うと入り口へとさっさと踵を返す。昔はしょっちゅう一人でここに入り浸っていたというのに、今はあの人がいないというだけで寂しく思ってしまうのだから現金なものだ。自然と笑みが漏れ、頬を叩いて、私は扉に手を伸ばした。
「…………む」
音が鳴らない様にそっと扉を開け閉めして、階段を降りようとしたところで私はそれに気づく。
小さな足音。…誰かが、上がってくる。
別に悪いことをしている…といえばしていたのだが、何だか普通立ち入らない場所で一人、ぽつんと立ち尽くしているというのもいただけないというか、気まずいというか。別に構う訳でもないが、◯◯飯ならぬ踊り場飯でもしていたと誤解されては些か恥ずかしい。お昼じゃないけど。
「さささ…」
私は入り口の隅、机や掃除用具入れ、その他雑多に色々な用具が積み重なって上手いこと影になっている隅に身体を滑り込ませると、息を押し殺すことにした。
……仮にこれでバレたら、更に面倒くさいのでは……?
『………』
ちらりと影から顔だけを覗かせる。
どうやら上がってきたのは、一人の女子生徒。
私よりは短い黒髪を真っ直ぐと下ろして凛と扉の前に立つその姿。上履きの色から察するに新1年生の様だが、スラリと均整のとれた抜群のスタイルをしているものだからとてもそうは思えなかった。…思えば、兄さんも私を見てそんな感想を言っていた。
後輩(仮)は、(一人なので当たり前だが)無言で扉のノブに手を伸ばすと、何度か軽く動かし始めた。されども、扉はうんともすんとも言わない。残念。ちょっとしたコツがあるのです。
『……ま、それはそうよね』
本来ならば立入禁止。元より期待はしていなかったのだろう。憂いを帯びた横顔で、彼女は深く溜息をついた。
あの横顔。ふむ…何処かで見たことがある様な。
「(あ)」
…ああ、思い出した。入学式の手伝いを買って出た兄さんの手伝いで体育館で作業していた時に見かけた、とても穏やかで礼儀正しそうだった新入生代表の子だ。
確か名前は、名前……は。
まな『ゴッッッ!!!!』
………………。
『ちっ』
まぁ…………………。
「(びっくりしました……)」
考えを綺麗に吹き飛ばしてくださった、突如、耳に届いた轟音。
件の後輩が遠慮も躊躇も無く扉を蹴りつけた音だと気付いたのは、彼女が扉に脚をかけたまま苛立たしげに舌打ちしていたから。
前言撤回。とても穏やかで礼儀正しそうじゃなかった。
…ふむ。少々癖のある新入生代表らしい。
『……はぁ…』
幸い、音を聞きつけて誰かが駆けつける様子も無い。元々、人通りの少ない時間帯ではあるが、それを踏まえてのことだろうか。
後輩は今度は階段に膝を抱えて座り込むと、小さく丸くなってしまった。そこに先程の剛毅さは欠片も無い。
「………」
訪れる静寂。困った。出られない。
いやまあ、そもそも隠れている私が悪いのでどうと言える事でも無いのだが。
けれど、あの子が座り込む一瞬、垣間見えたあの寂しそうな横顔。
あの顔はよく存じていた。大切な人に置いていかれた何処かの無愛想が鏡の前でよくしていた顔だ。
「(………)」
再度影に姿を隠して、私は床に視線を落とした。
顔しか知らない、話したことも無い後輩。
そんな彼女が寂しそうにしていたからといって、私がどうこうする必要などありはしない。寧ろ、お節介だ、何様だと思われても何らおかしくないだろう。
放っておけば、すぐに何処かに去るだろうし、悩みだってきっと時間が解決してくれる。
…私がどうこうする必要など、何一つありはしない。
ありはしないのだ。
「こんにちは」
「!?!?!?」
ですよね、兄さん。
「こんにちは」
「っ……ど、……どう、も?」
突然音も無く背後から現れた謎の女を、後輩が目を限界まで丸くして見上げている。
それはそうだ。背後は扉。そして壁。普通に見渡した所で出てこられる場所など何処にもありはしない。普通は。
「え……?いや、いつの間に……」
「屋上に行きたいんですか?」
「は」
「屋上に行きたいんですか?」
不審。そして怪訝。
紛うこと無く不審者に向ける目が、容赦無く私の身体を貫いていく。
これでも無表情の裏で内心緊張しまくりなのだ。新入生代表ならば、多少のアレコレなど見逃してほしい。私も先程の見事な蹴りは見なかったことにするから。
「…行きたい、と言ったら?」
気づいているのか、いないのか。いつの間にか、彼女はお淑やかな仮面をその整った顔に被せて、見るものを魅了するであろう優雅な微笑みをその顔に浮かべていた。
ああ。
何て薄っぺらいんだろう。
全く持って『可愛くない』。
そんな表情を浮かべなければならない程に、追い詰められているのか。
「…特別ですよ」
「え?」
心の中でこの子に付き合う小さな決意を固めながら、私は唇に人差し指をあて、背後の扉に歩を進める。
ガチャガチャと何度かノブを弄り回し、持ち上げる様にして力を入れれば、不思議なくらいするりと扉が道を譲ってくれた。
身体をずらして、手で『どうぞ』と合図すれば、後輩はまたさっきの様に目をぱちくりと。
「…どうして」
「秘密です」
む。
その言葉に、笑顔のままにぴくりと一瞬、片眉が跳ねたことを私は見逃さなかった。今の擬音は私の想像である。
ごめんなさい。それを教えるには、まだまだ貴方は私の好感度が足りないのです。
「…いいんですか?こんな事をして」
「蹴るよりマシです」
「っ……」
「失礼」
笑顔が睨みに変わった。見られていた事が分かった以上、取り繕う気も無くなったのだろう。私的にも分かりやすい方が有り難いので特に謝るつもりも無い。
「お言葉に甘えて!!」
「よしなに」
肩を怒らせながらずんずんと、後輩が敷居を跨いで屋上に進んでいく。
閉じ込められたら事なので、私もまた彼女につき従って再び屋上へと入り、誰かが来た時のため、音も無く扉を閉めた。
「あまり柵に近づいてはいけませんよ。外から見えます」
「分かってますっ」
「これまた失礼」
予め兄さんに断りの一文を送ると、屋上の中心で立ち止まって深呼吸をしている後輩の背中に改めて視線を向けた。
さて、二人きりな訳だが。
私に一体、何が出来るというのか。
人見知りで口下手でマイペース。素晴らしく相談事に向いていない水無月葵という小娘の無謀なミッションが今、幕を開ける
…のか?




