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読めない君が笑う時  作者: ゆー
それから。
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とかして、とけて、しつけて。

「…葵の髪って綺麗だよな」

「………む………」


ある日、部屋で2人過ごしていた時。髪を梳かす風呂上がりの恋人の後ろ姿に見惚れ、いや、つい何気なく口から零れ落ちてしまったその言葉。誤魔化そうとしても時すでに遅し。顔を見なくとも、肩をピクリと跳ねさせたその姿でばっちりきっちり聞かれてしまったことはよ〜く分かる。

けれど、そんなにびっくらこく様な事を言ったつもりも無かったのだが。

す〜……と、ゆっくりとこちらを振り向く葵のお顔は、風呂上がりのせいか、少し赤い。


「………お母さんから『あまりとやかく言いたくないけど、女の子なんだから髪くらいはちゃんとお手入れしなさい』と口酸っぱく言われました。とやかく言いたくない筈なのに」

「そうなんだ」

「…触りますか?」

「え」


正座した姿勢のまま膝を動かして、腕の力でずいずいと葵が俺の前へと迫りくる。

眼前に差し出されるのは、いつの間にやら随分と見慣れたサラサラの頭頂部。

部屋の明かりに照らされて、高級な絹糸の如く艶々と輝いている。


「撫でますか?」

「…いいのか?」

「無論。兄さんになら、いつでも、何でも、何処ででも」

「…そ、そっか」


どきっとする台詞と共に薄っすらと微笑みを見せながら、葵が何の警戒も見せずに目を瞑って頭を下げた。

…葵は良くも悪くも、割とストレートに思ったことを伝える傾向がある。俺も一応男なもので、そんな無防備な姿を見せられたら何も思う事が無い訳ではない訳で。


「………。………」


その黒い胸中を表すかの様に、いつの間にやら無意識に俺の手は葵の頬に添えられ、その柔らかな肌を撫でていた。


「ん…ふふ。…くすぐったいです…」


もじもじと身体をもぞつかせ、毛繕いされる猫の様に頬を擦り付けるその姿を目の当たりにして、漸く己が何をしているのか気づいて慌てて手を離す。

…危ない危ない、俺は一体何を…。


「…髪はいいんですか?」

「…わ、悪い」

「何も悪くはありませんが……ふむ。なら兄さん、お詫びに梳いてください」

「お、おお?」


何ともぎこちない俺の姿に柔らかい笑みを漏らして、手に持っていた櫛を華麗にくるりと半回転させると、葵がそれを差し出してくる。

あれよあれよと受け取ったはいいものの、異性の髪など梳かすどころかろくに触れたこともない硬派な大和男子にはいきなりハードルが高すぎやしないかと。


「にーいさん?」

「…お、おう…」


目と手で駄目押しに催促すると、葵が身体ごと振り返った。

抱き締めたら簡単に折れてしまうのではないかという、細い背中。決してそんなことにはならない事はとうに存じているものの。


「い、いざ…っ」

「よしなに」


小さく深呼吸をして特に必要の無い筈の覚悟を決めると、その艷やかな髪にそっと櫛を差し入れ、上から下に緩々と撫でつける。

すると、あらびっくり。恐ろしいことに、櫛が引っかかる気配が微塵も無い。何ともスムーーーズに頂点から先へと櫛が通り抜けるのだ。例えるならば、その、…あれ、ETCみたいに。ごめん何でもない。


これが俺の髪であれば、葵の半分にすら満たない長さなのに、将来が不安になる痛みを何度もご丁寧にお伝えしてくれるというのに。


「どうですか?」

「楽しい…」

「ですか。………苦労した甲斐はありましたね」

「何か言った?」

「いーえ?」


さりとて、ここまで気持ちよく整えられると、寧ろ煩わしさより楽しさの方が勝るというもの。

成程、女子は毎日こんなにも努力しているのかと、自然に任せるがままのナチュラリスト穂村としては尊敬の念を感じずにいられない。


暫しの間、夢中になる程に無言で葵の髪を梳かし続ける。

葵は文句一つ言う事無く、寧ろ楽しそうに肩を揺らして、俺に身体を任せるのだった。












「ど、どうだ…?」


戦々恐々。そんな感情が垣間どころかがっつり表に飛び出しているスタイリストを後ろに、葵が鏡でその出来栄えを確認する。


「お上手ですよ。気持ち良かったです」


後ろから鏡ごしに見えるその顔に不満は無い。どうやらお気に召してくれたらしい。そっと胸を撫で下ろした。


まあ、ただ髪を撫で付けただけと言えばそれまでなのだが…、いやいや、髪は女の命。それを触らせてもらえたというのに、こんな事を言っていると女性のお叱りを受けそうだ。これ以上下手な事は言わないでおこう。


「お礼に肩でもお揉みしましょう」

「ん?」


と、振り向いた葵が今度はご機嫌に俺の肩を掴んで前後を入れ替える。

突然のご提案に、俺も一瞬目を丸くして口を開こうとしたが、視界の端に映り込んだ、肩に置かれた細く白い手のしなやかさについ反応が遅れてしまった。


「凝っていますね、お客さん」

「あー、まあ、ちょっと酷使しすぎて?」

「………」

「あれ?葵さん?力が、痛、痛たたただ」

「因果応報」


迂闊な事を言ってしまった罰か。俺の肩に食い込む葵式指圧術が容赦無い。

僕悪いことしてないのに。ちょっと加減を知らなかっただけなのに。


ぎゅうぎゅう。ぐりぐり。力こそ容赦無いが、実際、その手腕は見事なもので、凝り固まった筋肉が柔らかく解されていく感覚が肩口に広がっていく。


心地良さにほっと息を吐こうとして、


「えい」

「ぉ」


いや、吐こうとしたまさにその瞬間、後ろから彼女に抱きすくめられた。妙なタイミングだったおかげで息をごくりと飲み込んでしまい、胃の中に奇妙な感覚が残ってしまう。ぎゅるぎゅる音がなったら恥ずかしい。


「ど、どうした?」

「大きいですね」

「お、おお…?」

「兄さんの匂いがします」


戸惑う俺にお構い無しに、葵は背中に頬をくっつけて、鼻をすんすん鳴らしている。

風呂上がりなので、臭う…ということは無いと信じたいが、好きな娘に抱き締められていれば、どうしても緊張が勝る。


「あの、あまり嗅ぐのは……」

「?私は好きですよ?」

「……」

「毎日嗅いでいるのに飽きません」


…その言葉の意味は横に置いておいていただくとしてだ。どちらであろうと気恥ずかしいことは変わらない。


「くしゅんっ」


どう切り抜けたものかと、そう思った矢先に部屋に響く可愛らしいくしゃみ。

幸か不幸か、ちょうど葵が身体を離したことをいいことに、俺もその隙にすかさず身体を入れ替える。


「ああ、ごめん。時間かけ過ぎたから冷えちゃったか?」

「むぅ…温めてください」


抜け出した俺に、膨らませた頬の上に不満をありありと乗せて手を広げる恋人に苦笑しながら、俺は少し離れた所に掛けてあった上着に手を伸ばすと、葵に羽織らせる。


瞳の不満がまた大きくなった。布よりも人肌をご所望の様だ。

やれやれ、仕方ないなあ。そんな素振りを表に出しながら、その実、可愛い恋人に色々と込み上げるものをひたすらに抑え込んだ俺は、あくまでも冷静を装って葵を胸に抱き留めた。


「あまり俺を甘やかしちゃ駄目だぞ」

「寧ろ甘えているつもりですが」


首筋に頬を擦り付けながら、葵がぽつりと。

綺麗に撫で付けた頭に指を通して撫でながら、肩に顎を乗せると俺は小さく溜息を吐いた。


「葵さんは、俺がよくない事を言い出したらどうするつもりなのか」

「よくないこと?」

「よくないこと」

「よくないこととは?」

「よくないことです」


頭の悪い問答を何度か交わしながら、やけにぐいぐいと、そしてぐりぐりと頭を擦り付けて追及してくる葵。

俺が折れるのに、そう時間はかからなかった。


「……葵さ」

「はい」

「…俺が言う事を『嫌だ』と思ったらちゃんと嫌って言える?」

「………」




「………難しいと、思います」


「兄さんがしたいことなら喜んでするでしょうし、兄さんが喜んでくれるなら兄さんが望む反応を喜んでするでしょうし」

「………うーん………」


予想していた通りの言葉だった。

良くも悪くも、俺という存在に依存していた葵は最近、恋人としてのイロハまで俺に委ねる傾向が見え始めていた。

勿論、信頼されていることは素直に嬉しい。けれど、いつか危うい所まで行き着いてしまうのではないかと、そう思わなくもなかった。


さて、どうしたものか。


そう思った瞬間、ひっくり返る世界。

葵が俺を押し倒し、上から俺を見下ろしていた。

長い前髪から覗き見える瞳は、微かに熱を帯びている。


「葵?」

「…例えば、兄さんが今この場でこの様に私を押し倒したとして」


「気持ちいいかどうかなんて、二の次でいいです」


「乱暴でも、滅茶苦茶でも、兄さんが私を求めてくれる。今、この瞬間、私だけを見てくれる」


「その事実を、ただひたすらに感じたい」


「それが、どうしようもなく……愛おしく、狂おしい」


「兄さんは……違いますか?」


不安そうな言葉とは裏腹な、蕩けた表情で彼女が上から微笑みかけてくる。

多分、葵自身が俺にその言葉を求めているからこそ、問いかけたのだろう。彼女なりの乙女心、といった所だろうか。


「…ああ。俺も、葵が欲しいし、求められたい」

「…っ…。…何でもしてください。私は、兄さんのものですから…」

「それはそれとして、気持ちを一方的に押し付ける様な真似はしないぞ」

「分かっていますよ」

「え」


思いの外、強い口調で断じられて、つい目を瞠る。

対して目の前の葵は、逸らすことなく、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

そして、徐ろに唇を落とすと、晴れやかに微笑み




「全部、分かっています。兄さんは、決して私が嫌がることは、しない」






「分かった上で、兄さんに身も心も支配されたいんです」






………………。


「……………可愛い従妹の将来が心配だなぁ」

「では、かっこいい兄さん、いえ、かっこいい恋人がちゃんと躾けてくださいね?」

「躾……」

「にゃ〜ん」

「人を捨てないで」

「はい。私は貴方の可愛い恋人です。何でもします」

「本当に心配」

「ですか」


…全く、日々成長していることは嬉しいものの、その分、色々と悪い教えも順調に吸収してしまっている様だ。

ご機嫌に抱き着いてきた葵を胸に抱えて、俺は今暫く期待と不安で胸を膨らませることになるのだった。


…聞き分けの悪い猫をどう躾けたのかは、また別のお話。

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