素直な君が甘えまくる時
すっかり落ち着いた日常が戻って来た。葵が俺の横にいてくれる、いつも通りの日常が。
いつの間にか当たり前になっていたその距離が、何も無いのに笑みを零してしまう程に、どうしようもなく心地良い。
今日もまた、二人で仲良く買い物をして家に帰ってきた。今までと違うのは、風を感じているだけだった空いた手に、自分のものではない温もりが加わったこと。
「葵」
だらしなく浮足立った気分と共に、今晩の料理を鼻歌交じりに作り終えた俺は、毎回手伝いを切望してくれる健気な恋人に皿でも運んでもらおうかなと思い、その名を呼んだ
「はい」
のだが。
…葵は来てくれた。声をかけた瞬間、すぐさま反応して心なしか早足で。
机で姿勢良く正座して本を読んでいたその面を上げた瞬間、頭上にぴんと立ち上がった耳が見えた気がしたのは、きっと気の所為だろう。
「お呼びですか?」
そして止まった。
「………」
俺にぴったりくっついて。
「兄さん?」
料理した姿勢のまま、綺麗に停止した俺を不審に思ったのだろう。葵が腰を曲げて俺の顔を下から覗き込んでくる。その顔に浮かべるのは、年相応のあどけない笑み。見違える程に目にする機会が増えた、柔らかい自然な笑みである。
そしてついでに、その手はしっかりと俺の腕を抱き込んでいる。
「………えっと、お皿、出してもらっていいかな…」
「はい、分かりました」
固い俺の声を何ら気にすることなく、あっさりと手を離した葵は、棚から皿を出して綺麗に机に並べていく。
未だじんわりと温もりが残っている様な気がする腕から必死に意識を逸らしながら、俺もまたその背中へと歩を進めるのだった―――
「葵」
「はい」
「葵」
「はい」
「………」
「はい」
「まだ呼んでないけど!?」
■
「………葵」
「?」
名を呼べば、いつも貴方のおそばに葵。
そんな日常が暫く続いたある夜。精神的、いや肉体的でもあるが色々と辛い日々が続く中で、俺はついに意を決して葵に声をかけた。
「その、さ」
「はい」
「…もう少し、離れないか…?」
「え」
恋人としてはあまりに冷たい言葉。途端に葵は小さな声をあげて勢い良く起き上がると、ぱちくり丸くした目で上から俺を見下ろす。
「…………嫌、でしたか………?」
そして、突き放されたと思ったのか、今度は酷く傷付いた頼りない目でこちらを見つめている。
「いや、違う!」
それを見て、すぐさま言葉が足りなかった事に気づいて、俺は慌てて震える葵の手を掴み取った。
「そ、そんな訳ないだろうっ」
「なら」
「でも!」
「さ、流石に毎日毎日キスマークを付けられると、知り合いにバレた時気まずすぎるというか!?」
「………………………………………ああ」
「…ですか。なら、兄さんも付けていいですよ?……ん」
「言ってるそばから!!」
毎日、朝、共に目覚め、夜、共に眠る。今と同じ様に一つの狭い布団の中、一切の隙間なく身を寄せ合って。
そんな中で、寝る前(たまに朝から)に耳にする謎の小さな水音がある。そしてその時には必ず、胸の中に顔を埋めて何やら嬉しそうにもぞもぞやっている恋人の姿が。
翌日、歯を磨こうと鏡の前に立てばあらびっくり。俺の首筋には見るも無残な虫刺されの跡が。
…俺は隼人があんなに生暖かい笑みを浮かべられることも、風峰後輩が思いの外純情だったことも知りとうなかった。知りとうなかったんじゃ。
「ふぅ……気持ちいいです……♡」
「う……」
「兄さん、兄さんもしてくれませんか?……してほしいです……、しましょう?」
そんな俺の感情など気づくこと無く、うっとりと目を蕩けさせながら、唇の端に付いた残滓を舌で舐め取り妖艶に微笑む葵。
抑え込んでいた何かがついに決壊したのか、それともどこかしらのブレーキが壊れて超葵として覚醒したのかは分からないが、想いを通じ合わせてからというもの、日を増す度に葵の求める触れ合いは激しいものとなってきていた。
その攻めの前には、思春期の男子の忍耐など薄氷の様なものだろう。一瞬で砕けてしまう。というか当の葵がヤクザキックでぶち壊してカチコんで来る。
「兄さんの匂い…落ち着きますね……」
「うう………」
「兄さん。にーさん。…はぁ…………ん、ちゅ…」
首筋に顔を埋められ、肌を擦り寄せられ、何かすんすん嗅がれて、熱い溜息を漏らされ、去り際に駄目押しと言わんばかりに口付けられる。ちくりと痛みの奔ったそこにはもれなく、そしてまた小さな赤い腫れが出来上がることだろう。
加えて、俺の上に乗っかる葵は薄い寝間着姿。少し視線を下げるだけでむぎゅっと押し付けられた豊かなあれがゆるゆるなガードの首元から見ろよ見ろよと言わんばかりにその存在感をたわわに主張しているのだ。
まるで猫にじゃれつかれている様であるが、そこは猫ではなく葵。
猫よりすべすべで、猫より柔らかくて(一部)、猫よりいい匂いのする紛うことなき人間である。女の子である。恋人である。
「…葵」
「はい、分かりました。もっとします」
「すと、ストーップ!」
「あう」
鋼の精神力で葵の顔を無理矢理掌で遠ざければ、大層ご不満な瞳が指の間から俺を睨んでいる。…危ない。間にあった。
首から下に集中している間は、まだ食い止められる。これが上までやって来ると手遅れだ。眼前に現れた幸せそうな笑顔に唇を塞がれ、その苛烈な熱の前ではあっという間に俺のまともな思考も諸共に否応なく持っていかれてしまう。
これはいかん。大いにいかん。
年上として、家族として、先輩として、常識というものをこの愛情どストレート系彼女に叩き込んでやらなければならない。気付いた時には、穂村くんは上機嫌で煙草をふかす葵の横で裸Yシャツでさめざめと泣きながら朝チュンを迎えました、なんて事になりかねないのだ。まじで。
…恋人としては、めちゃくちゃ嬉しいんですけどもぉ…それはそれ。これはこれ。
「むう…」
「いいか葵。俺達はまだ健全な学生なんだ。然るべき関係とそれに相応しい付き合い方というものがあってだな俺の手を握ってキスするの止めなさい話を聞きなさい」
「むうー……」
可愛い。じゃない。
くっ…!誰だ、葵にこんな爛れた男女のいろはを叩きこみやがったのは。この子は純粋なんだから、間違った知識だろうがインストールしてしまったらまっしぐらって分かっていただろうに。
「ある時、T氏は言いました。『愛さえあれば許されるよね』、と」
「月城ぉ!!!」
奴か!いや、考えてみれば奴くらいしか思い浮かばんわ!
おのれ常識人の皮を被った頭ピンクっ娘め。まともだと思っていたのに、少し前くらいから教室のど真ん中で周りが引くくらいイチャつく様になりやがって。おかげでうちの子が悪い影響受けちまったやないかい。
「愛は溢れんばかりにあります。なら許されますよね」
「許されるか!」
「ふ・ふ・ふ…」
空々しい葵の微笑みと空虚な瞳が俺をじっと見下ろしている。笑顔が戻って来たのは大変嬉しいのだが、感情を隠す仮面までバラエティ豊富になったことは複雑極まりない。
固まった笑みのまま、ゆっくりと葵が俺の耳元に顔を近づけてくる。こちらの顎に添えられた細い指が首筋をつつーっと撫で、こそばゆさと恥ずかしさが全身に広がっていく。何が一番恥ずかしいってずっと俺が受けなことだよ。葵ちゃん強すぎるよ。
「兄さん。愛しています…愛していますよ……」
「うぐぐ………」
『争いは何も生み出しません……。許すのです……。全てはそこから始まります……。さあ、今はただ与えられる快楽に身を委ねて……』
「………ぅ、ぁぁ……」
耳元で優しく囁かれ、脳が緩やかに融けていく。成程、これがASMR……何と奥深い世界…。
…ああ、そうか。確かに愛さえあれば許されるか…?恋人だもんな…。
そこに愛があるんだもんな…。女将さんだって笑って親指立ててくれるよな……。好き合ってるんだもんな……。
「さあ、兄さんも…。触りましょう。吸っちゃいましょう」
「――――…」
「レッツ倒錯。ウェルカム背徳」
「――!っさせるか!!」
「おお……!?」
頭が桃色に飲み込まれようとする中、何とか誘惑を跳ね除け、鋼すら超えた不撓不屈の精神力で意識を取り戻し、葵の身体を持ち上げ上下を入れ替える。
「きゃ」
…入れ替えてから、即座に後悔した。あまり聞かない高いお声を上げた葵が、目の前で濡れた瞳でこちらを見つめている。わちゃわちゃしたせいで派手にめくれ上がった寝間着は、綺麗な臍を越えて中々に際どいところまで。
「不覚。…まさか耐えるとは」
「……俺を舐めるな」
「舐めていません。舐めたいです」
「………葵さん少し冷静になろうか?」
「?この上なく冷静ですが」
「……そーですか……」
駄目だこの恋人。早くなんとかしないと…。
されど、彼女と同じく恋愛初心者、Dの意思を未だ守り抜く穂村くんでは上手い言葉が紡げるはずもなく。
訪れる互いに見つめ合う、意味が有りそうで特に無い時間。
「……私は」
終わらせたのは、葵からだった。
俺の目を下から真っ直ぐに見据えて、頬に手を添え優しく撫でる。
「…ん?」
「言葉を並べ立てるのは、苦手です」
「………うん」
ぽつぽつと、葵から言葉が紡がれていく。静かに弱々しく。
「でも、私は兄さんが好きです。大好きです。それだけは、揺るがない。それだけは、疑われたくない」
けれど強く確かに、嘘偽りの無い己の想いを。
「…だから、せめて行動で示したくて…」
それもまた、以前の葵からはあまり見受けられなかった姿だ。
「疑わないよ。毎日感じてる」
「……」
頬を撫でる手を柔らかく握り締めて、指を絡める。
微かに目を見開いた葵が、白い頬を仄かに色づかせた。
「だから葵、焦らなくていいんだ」
「………兄さん」
「これから時間はたっぷりある。俺ももう、葵を一人になんてしないから」
「………」
「二人で一緒に、ゆっくり作っていこう。俺達なりの『恋人』を」
「……うん」
はい。ではなく、うん。珍しい返事に目を丸くする俺。
対して、唇をもごもごさせながら視線をあちこちに彷徨わせていた葵だったが、俺が固まったのを見ると、不意打ち気味に俺を抱き寄せて、もう一度口付けを落とした。
「……あ、あおい…」
「こうしてキスするのは、許容範囲ですか?」
「まあ、……うん」
可愛らしく首を傾げながら、そんな堪らないことを言われて俺が断れるはずもなく。何ならこっちだって何度でもしたいくらいなのに。
だが、ここで俺の男としてのなけなしのプライドが無駄に邪魔をする。
「………ちゃんと弁えてくれるなら、吝かではない、かな……」
「ふふ。ですか」
薄氷の様なうっすいプライドが。
「では、次は兄さんから」
「え」
つまり、他ならぬ葵式ヤクザキックでぶち破られる訳で。
「ん」
「……」
「んーー?」
手を広げて唇を差し出した葵が、微塵の警戒心も垣間見せず下から俺を見つめている。
眼下に広がる魅惑の光景に情けなく唾を飲み込んだところで。
じーーーーーー。
曇り無き純粋な眼は、変わらず俺を射抜いたまま。
どうやら、逃がすつもりは無いらしい。
「…葵」
「はい」
…不思議なものだ。人はある一定のラインを踏み越えると途端に冷静さを取り戻すものらしい。それが良きにせよ、悪しきにせよ。
深い溜息を吐く。それはあまりに無防備な恋人に向けたものでもあり、
何より意志の弱い己に向けた――
「俺は葵の家族で、葵の恋人だ」
「はい」
「だが何よりもまず、男だ」
「はい…?」
「だから」
…愛する恋人が望むことならば、何でも叶えてやりたい。そう思う程度の愛は、情けないこの身にも持ち合わせている。
目の前の愛しい存在を、好き放題にめちゃくちゃにしてやりたいと、そう思ってしまう程度の愛も、残念ながら。
「やばいと思ったら、ぶん殴って止めてくれ」
「え」
葵の言葉を最後まで待つこと無く、その細い身体を強く掻き抱くと諸共に布団に勢い良く倒れ込んだ。
そのまま俺達は、何度も、何度でも唇を重ね合わせる。
飽き果てるまで、…果たしてそんなものは訪れるのかという程に強く、強く抱き合って。
最初こそ目を見開いていた葵も、すぐさま俺の首に手を回すと積極的に。
…まさか、自分にここまで熱烈な情が備わっていただなんて。
改めて、恋人というものの破壊力を痛感したそんな夜であったが…とりあえず、ここまでにしておこう。
翌日から暫くの間、葵が心底嬉しそうだった。
その事実だけで、今は十分だろう。




