最終話
「よ。……姉さん」
その日、俺は珍しく、そう、珍しく何も無い日に墓を訪れていた。
退院してからどたばたごたついていたもので、多少時間を置いてしまったがまぁ、許してほしい。どの道、姉さんにとっては誤差みたいなものだろう。
「兄さん」
「ん」
墓石を拭き終われば、線香を持っていた俺を見て何も聞かずついて来た葵がここに来る前に買ってきた花を差し出してくれる。種類も彩りも絶妙なバランスで形作られたお洒落な花束。俺のセンスだと、どうもぱっとしない事が多いので彼女に任せて正解だった。
まめに替えられているのか、あまり古い感じもしない花を取り替えて、しゃがみ込んで身体を丸めると胸の中で線香に火を点ける。黙って風上に移動して風よけになってくれた葵に小さく礼を言って半分を手渡した。
「先に手向けても?」
「ああ」
俺の目を真っ直ぐ見ながら、首を傾け問いかける葵に俺も迷わず返事を返す。
…あれから数日。特に俺達に大した変化は訪れていない。
強いて言うなら、部屋の布団は依然として一つのままだし、葵が積極的に料理に取り組み始めたし、あーんしてくるし膝枕したりされたりするし気付いたら手をにぎにぎされているくらいだろうか大した変化は訪れていない。
…本当に幸せそうに笑うから何も言えないんだよなぁ。惚れた弱み。
実際、今もさり気に掠った柔らかい手にドキッとしたりした胸中を押し隠していたりする。
ただ、俺の方はちょっとだけ落ち着いただろうか。自分にゆとりを持ち始めた。
この間、先生からの頼みを『いつまでも俺がいる訳じゃないんだからいい加減しっかりしましょうよ』と初めてやんわりはっきりお断りしたら涙目で『止めて!正論なんて上司以外から聞きたくない!!お願い捨てないで!』となるくらいには。
…言っておいてなんだがあの人は論外だなこれ。周りから哀れなものを見る目で見られたし。
「あっれ〜?」
そんなことを考えながら、入れ替わる様にしゃがみ込んで手を合わせる葵の細い背中を眺めていれば.背後から聞き覚えのある声。
「珍しい。あんたがお盆でもない日に来るだなんて」
二人して仲良く振り向けば、意外でも何でもなく母が丁度こちらに歩いてくるところだった。
「たまにはいいだろ」
「責めてないわよ。毎年欠かさず来てくれるだけで嬉しいもの。ねえ?」
同意を求めたのは、横にいる葵ではなく、その奥。墓の下にいるであろう姉さんに向けて。
「父さんは?」
「もうちょい後」
俺も持っていた線香を手向ければ、母もまた入れ替わる様に。
手を合わせて、暫しの間流れる無言の時間。
…この人は毎回何を思っているのだろう。普段、陽気な姿をあけすけにしている分、こうして黙って手を合わせている姿を見ると、偶に思ってしまう。
何度も何度も頻繁に訪れて、本当は無理をしているのではないかと。心配に思ってしまうのは、この人の息子として、あの人の弟として、無理からぬことだと思う。
「ねぇ」
「ん?」
そんな俺の仄暗い心中を見抜いた訳でも無いだろうが、母がいつの間にかこちらを向いて、ニヤニヤといやらしい笑みを向けていた。
「何だよ」
「二人付き合ってるでしょ?」
「………は、」
迷いの無い指摘に、思わず変な声が。
察せられる様な姿を晒した覚えはとんと無かったのだが、母には何か思うものがあったらしい。俺達に向けて指を差すと、今度は呆れた様な困った様な笑みを浮かべている。
「だってあおちゃんめっちゃ距離近いし」
「………葵」
「………」
すすす。俺の身体にほぼ密着状態で裾を掴んでいた葵が無言で二、三歩距離をとる。
それでも裾は離さないのだから、そんなもの推して知るべし、ということなのだろう。
俺達二人の視線が裾を掴む手に向けられていることに気づいた葵は、気まずそうに手を離すとわざとらしい咳払いの後、母の前へと歩み出た。
「あの、おばさん」
「んー?」
「私、数日前から、兄さんと付き合わせていただいております」
「んー」
「お姉さんにもその旨、報告させていただいたところでして」
「んふふー」
…そこまで正直に話すことはないんじゃないかな。
葵が丁寧に腰を折り、俺が何故ここにいるのかがはっきりしたところで、母の口が綺麗な三日月を作り出す。
「彼女に兄さんって言わせるのえっちいわよね」
「うぐ」
「何言ってんだあんた」
「冗談じょーだん。おめでとう二人とも」
そこで急に素直に祝福されるのも、少し気持ち悪かったりするのだが。
…ただ、俺に関して言えば、姉への報告だけが目的ではなかった。
この人に伝えなければならない事がある。その為に、俺は。
無言で葵に視線を向けると、それだけで意図を察してくれた彼女は自然を装ってこの場を離れてくれた。その心遣いがとても有り難くて。持つべきは優しい従妹兼愛しい恋人か。
「何か私にお話?」
とは言え、その意図は完全に母さんには読まれていたらしい。
思わず目を丸くして振り返ってしまっても、母は変わらぬ笑みを浮かべたままこちらを柔らかく見つめているのみ。
「分かるんだ」
「母さんをみくびっちゃ駄目よ」
「………」
「あ、愚弟に許しが欲しいとかって話なら、母さん場を設けてあげてもいいけど?」
「自分でやるわい」
…覚悟がもう少し固まったら。
立ち上がった母に向き直ると、真っ向からその顔を見据える。
こうしてこの人の顔をはっきりと見つめるのは、久しぶりのことかもしれない。俺は赤の他人の顔ばかり見て、身内に目を向けていなかったから。
ああ、そうか。
こんなに疲れた目をしていたのか。
「…嘘だと思われるだろうけどさ」
「それは聞いてから決める」
「あっそ」
そして、それをおくびにもださず明るく振る舞って。
何て、強い。この人も、葵も、俺の周りにいる女性は何て。
俺がこれから告げる言葉は、果たして真にこの人の為になるのだろうか。
それでも、伝えなければならない。あの人の最後の言葉だから。
声が震えない様に腹に力を込めながら、唇を湿らせると俺は口を開く。
「意識が無かった時、俺、姉さんに会った」
「……………」
「…で、姉さんから、伝言を預かってる」
その言葉を聞いた時、分かりやすく母の身体が反応した。
愛する家族と言えど、冗談で言っていい言葉では無い。かつて家族がどれほど悲しみに打ちひしがれたのか、伝え聞いているし、俺自身よく身に染みている。
それでも。
「『ママの力強い子守歌が、大好きでした』…って」
「…………」
信じてほしい。あの人は心から母の愛に感謝していたと。
だから、もう無理に内に抱え込まなくてもいいのだと。
「…母さ「信じる」、え」
正直なところ、信じてくれるまで何度でも説得するつもりではあった。けれどそれは、意外な程にあっさりと受け入れられた。
「…自分で言っておいて何だけど、………いいの?」
「うん。だって、あんたには歌ったことは無かったもの」
「子守唄?」
「演歌」
「演歌!?」
唖然と大口を開ける俺を見てくっくっと大袈裟に笑いを漏らしながら、母が再度墓の前に座り込み、愛おしそうに墓を撫でる。
「………しかし。ふふん、まもったらやはり母さんの子ね。陽の者の素質に満ちあふれているわ。話が合いそう」
「…………」
「だからさ」
それはまるで、顔を見られたくない様にも見えた。
「だから。ちょっと、ちょっとこの子と、お話したい、から、一人にして、くれる?」
「分かった」
だから俺は、返事だけを簡潔に返すと、直ぐに踵を返した。
「『総ちゃん』」
「え」
そして、うんと小さな頃に呼ばれていた名で呼び止められた気がして、思わず振り返る。
「……ありがと……」
そこにあった大きく震える小さな背中と、常の元気など欠片も無い弱々しい声を、俺は生涯忘れることは無いのだろう。
■
その夜、赤く腫れた目でからから笑う母と、あの後合流した父と共に俺達は久しぶりに食事を共にした。
父は何かを察していたようだが、その場で何かを突っ込むような事は無かった。後の事は、二人の間に任せていいだろう。
「兄さん」
「うん?」
布団の中で暫く天井を見つめ続けていた俺の隣、同じ布団の中で俺の横に寄り添う様にくっついていた葵が静かに俺の名を呼んだ。
「悲しいですか?」
「いや」
「寂しいですか?」
「……そうだな」
葵にははっきりとではないが俺が見た夢について説明してある。何故かやけに理解が早かったが。
…寂しい、か。多分、そうなんだと思う。
もう二度と、暑い季節にあの夢を見ることは無いだろうから。
でもそれは、決して悲しい事ではない。お互いに未練にケリをつけて、それぞれの道へ進んだだけなのだから。
次に巡り合うのは、せいぜい何十年後か。それとも来世か。どちらにせよ、長い。
だから悲しいではなく、寂しいなのだ。
「分かりますよ」
「葵?」
「そこにいるのに、そこにいない。……よく、分かります」
俺の上に移動した葵が両の手をとって指を絡めると、真っ直ぐに目を見つめてくる。
月明かりに照らされた潤んだ瞳に射抜かれ、その美しさに圧倒され、つい言葉を失くした俺に落とされる柔らかい唇。
「でも、私達は今ここにいます」
「……葵」
「これからもたくさん想い出を作りましょう。嬉しい事も、辛い事も、楽しい事も、悲しい事も含めてたくさんの想い出を」
「……」
「そして、向こうにいったらたくさん話しましょう。『私達はこんなにも幸せでした。貴方が救ってくれたおかげです』と」
「それがきっと、何よりの手向けになります」
そう言って彼女は穏やかに、けれどはっきりとした笑顔を浮かべる。
「……ですか」
「もうっ」
照れ隠しにもならない俺の猿真似を聞いて膨らんだ葵の頬に手を添える。
最早お馴染みと言わんばかりに手をとって心地良さそうにうっとりと目を閉じる葵に顔を寄せると、俺達はもう一度口付けを交わす。
葵の言う通りだ。楽しい事も辛い事も全部引っくるめて、それらがあったから俺達は今、こうしていられる。
「兄さん」
こうして目の前で幸せそうに笑みを浮かべる彼女をもう一度見る事が出来たのも、全部。
「(ああ…)」
目の前にばかり目を向けていたけれど、こんなにも未来が楽しみなのは初めてだ。
「葵」
「はい?」
『逢いに来てくれてありがとう』
「わぷ」
声にならないその感謝をありったけ込めて、俺は葵を抱き締めるのだった。
きっとこの先にも、色々な事が待ち受けているのだろう。
でも、もう一人で抱え込む事は無い。
最愛の人が隣で寄り添ってくれるから。




