第50話 君が笑う時
『話があります。放課後、屋上に来てください』
「………」
出鼻を盛大に挫かれた気分だった。
朝、彼女が俺よりも早く家を出ていき、ついに登校までもが別々になってしまったと密かに嘆いたその日。いつの間にか机に入っていたその可愛らしい便箋には、ただその一文だけが丁寧な文字で綴られていた。
授業の支度を整えようと動いていた身体が、石の様に固まってしまう。
一体誰が。などとそんなくだらない問答を繰り広げるつもりも無い。
一体何故。この奇妙なぎこちなさを終わらせる、ということなのだろう。
ぶつけられるのがどんな感情であろうと、背を向けることだけは許されない。
真っ向から彼女と向き合う。一つの小さな決意を固めた俺にとってはそれこそ望むところだった。
「どうした?」
「何でもない…」
「そうか」
俺のわざとらしい笑顔に気づいているのだろうに、前にいた隼人はそれ以上何も言わずに顔を戻す。
この1年で培った俺達二人の関係に一つの転機が訪れる。
それは終わりの始まりか、それとも始まりの終わりとなるのか。
授業がここまで長く感じ、そしてここまで頭に入らないのは、生まれて初めてだったかもしれない。
■
そこにあるのは、年季の入った錆が何とも絵になる堅く重苦しい鉄の扉。
「………」
『少し、コツがありまして』
『兄さんには教えてあげます。…特別ですよ?』
唇に可愛らしく人差し指を立てながら、そう言って彼女は穏やかに微笑んでいた。
まだ暑い夏が残っていた季節だったか。…今となっては遠い昔の様に感じてしまう。
「………」
この扉を開けた先に、彼女はいる。否応なく結末を迎える事になるのだろう。
自身の掌をじっと見つめる。微かに震えていた。
「(本当格好悪い…)」
あれこれ並べ立てておきながら、事ここに至ってもまだ怖がっているだなんて。
そういう意味なら、彼女の方がよほど強く、遥かに立派だ。俺の前に現れた事も含めて、こうして自分からはじめの一歩を踏み出せるのだから。
心の奥底では未だ無意識に子供扱いしていたのかもしれない。彼女はちゃんと自分を持っていて、最初から一人でも歩いていけるというのに。
「………」
拳を二、三度、握り込むと、深く深く呼吸を繰り返して、汗ばむ掌で扉に手をかけた。
彼女に教えてもらった通りにノブを何度か弄くれば、びくともしそうになかった扉が不協和音を奏でながらあっさりと動き出す。
最後にもう一度深呼吸をすると、俺は大きく一歩を踏み出した。
「……え」
誰もいない。
広がる夕焼けの空の下、頭の中で思い描いていたその背中は影も形も無い。
…時間が早すぎた、のだろうか。
気持ちばかりが逸りすぎていた自分が途端に滑稽に思えて、思わず身体の力を抜いてしまえば
「―――」
力が抜けたその瞬間、背後から何者かに拘束された。
何の気配も無く、視界に一瞬掌が映り込んだと思った次の瞬間、鼻と口を塞がれ、腕をとられ、膝裏に軽い衝撃を加えられた俺は抵抗する間もなく流れる様に地面に膝を折った。
「動かないでください」
背後の耳元で聞こえるのは、この1年で嫌という程耳に馴染んだ透き通る声。
何故、俺は拉致されたのか。そんな疑問も、この声の前では安心の方が勝ち、霧散してしまう。
「兄さん」
「………っ……………!………………!?」
「兄さん?」
ただ、それはそれとして鼻と口を塞がれて呼吸が出来ない。死ぬ。
「あ」
遅れて気づいた犯人が、何とも間抜けな声を上げて力を抜く。
何とかかんとか新鮮な空気に再び巡り会えた俺が背後を振り向こうと首を動かそうとすれば
「動かないでください」
ごき。
「っ゙!?」
「あ」
首を逆方向に捻られ、よろしくない音と同時に迸る激痛と、また間抜けな声が。
ああ、何だろう。遠い昔に似たような事があった様な、無かった様、な。
「…………」
「…………」
涙で滲む視界の中、承諾と降伏の意を込めて、俺は震える両手を上に上げる。
無事その意を汲んでくれた犯人…葵は、口を塞いでいた手を離すと、その手を今度は腰に回してこちらを背後から抱き締めてくる。
ただでさえ可愛い女の子、ましてや今は意中の子。初めてではない筈なのに、心臓がいつにも増して面白いくらいに暴れ回る。
「あお…「兄さん」」
気持ちを誤魔化す為にも明るく声を発しようとした俺を静かに、けれど力強く遮ったのは、言うまでもなく。
「…その、まず最初に、ごめんなさい。顔を見られたくなかったもので…」
「そして、…ありがとうございました」
………。
ぽつぽつと、静かに言葉が紡がれる。鼻を擽る彼女の匂いと、背中に感じる彼女の温もりに心揺さぶられながらも、俺は平静を装い耳を傾ける。
謝罪の方は、言うまでもないだろう。けれど、お礼は何に対するものなのか。
だが、それを問う必要は無かった。葵がまたすぐに口を動かしたから。
そして、その言葉は俺が頭の中で考えていた全てを遥か彼方へと消し飛ばす。
「命を救ってもらいました」
「嫌な人から護ってもらいました」
「…二度、命を救ってもらいました」
「ずっとずっと、お礼が言いたかった。他でもない、『貴方自身』に」
「貴方のおかげで私は今ここにいます。こうして今日も生きていられます。そう伝えたかった」
「本当に、ありがとう、ございました」
顔を見られたくない、と言ったのは本当なのだろう。回された手の力が増して、背中に彼女の重みが優しく加えられ、自然、葵の頭が強く押し付けられる形になる。
「総護さん」
くぐもった声が発したのは、初めて耳にする、俺の。
「私は貴方が好きです」
「愛しています」
「命を救われたからじゃない。きっと、子供の頃、初めて目が合ったあの時から」
「私の心を温かくしてくれる笑顔も」
「頭を撫でてくれる大きな手も」
「すぐに誰かに手を差し伸べてしまう困ったところも」
「何もかもを、愛しています」
口数が多くはない葵だからこそ、そのたどたどしい言葉が持つ誠実さを殊更に強調してくれる。心からの想いなのだと、理解させてくれる。
…胸の奥底から滾々と熱が溢れてくる。顔どころか脳が沸騰しそうな程に鈍痛を訴えている。
…完全に予想を超えていた。
まさかここまで、真っ直ぐに、愛情をぶつけられるだなんて露とも思っていなかった。
まさかここまで、葵が自分の想いをはっきり口に出来るとは思っていなかった。
………本当に。少し目を離した隙に、どこまで成長するつもりなのか。
「そ、兄…さん、にとって、私は、何ですか?」
「どんな答えでも、いいんです。兄さんの口から、聞きたい」
だから、俺の方こそ成長しなくてはならないのだろう。彼女に負けないくらい、真っ直ぐに気持ちをぶつけなければならない。
黙り込んでしまった俺を、依然として葵は逃さない様にしかと抱き締めたままだ。けれど俺が一言離してくれと言えば迷わず離すのだろう。それこそが俺の返事だと、そう判断して。
なら、顔の見えないこの状態は都合が良かったかもしれない。
真っ赤に茹だっているであろうこんな顔、少なくとも今は絶対に見られたくなかった。
「…葵」
「はい」
名を呼んだ声は震えていなかっただろうか。たった三文字が恐ろしく重かった。
口の中はカラカラで。視界がチラチラ揺れている。改めて、葵の強さを思い知った。
「俺は、よく分からなかった」
彼方まで飛んでいった言葉を必死に手繰り寄せて、俺は言葉を紡ぐ。多分、それでも、俺が今まで並べ立てていた言葉とは比べ物にならないくらい、拙く、みっともないものだろう。
けれど、どちらであろうと、紛うこと無き俺の本心であることは変わらない。
「いきなり湧いて出てきた、得体の知れない従妹」
「物静かな割に、やけに強引なところがあって」
「いつの間にか、横にいるのが当たり前になって」
「さり気なく助けてくれて」
「かと思えば、ふとした瞬間、俺の事をやけに寂しそうに見つめていて」
「本当に、分からなかった」
面倒事に進んで首を突っ込む阿呆に呆れながら、けれど隣で歩き続けてくれた彼女。
ぞっとするほどの美人なのに、とんと感情の読めない無表情。出会った当初こそ戸惑って仕方なかった。心配だった。彼女は割とマイペースで、さり気なく強引で、果たしてこんな状態でこれから二人、上手くやっていけるものなのかと。
「でも、違った」
何もかも、全くの杞憂だった。
心優しい子だった。真実、俺を心から心配してくれた。その歪さに寄り添ってくれた。
真面目な子だった。ただ表に出てこないだけで、その奥底には確かな芯があった。
とても新鮮で、そして楽しい1年だった。
その献身に俺は自分勝手で返そうとしているとばかり思っていた。
今、こうして彼女の熱情をぶつけられるまで。
「葵」
「…はい」
胸に回された細い手を握りしめる。寒空の下、冷え切っていると思っていた手は、驚く程に熱を持っていた。いや、熱いのは俺だけなのかもしれない。
「俺も、葵が好きだ」
「初めて会った時、記憶を失くした俺の前にもう一度現れた時」
「目と目が会ったあの瞬間、俺は二回葵を好きになった」
「…いや違うな。…三回。…記憶を取り戻して、目が覚めたあの瞬間も」
「俺を想って、心配してくれた優しい君を」
…これからも二人、共に歩いて行きたいと心から思う。従兄妹としてだけでなく、恋人として、互いに支え合っていきたいと。
その為の言葉は、真っ直ぐ顔を見て伝えたかった。
いつの間にか力の抜けていた、震える手を優しく解くと俺は身体を翻す。
「葵」
「はい?」
「おれ、…は」
そして固まってしまう。
目の前には、真っ赤な顔で大粒の涙をぽろぽろと流す葵がいたのだ。
「お気になさらず。続けてください」
「……」
「続けてください。聞きたいです」
何てことの無いように言葉を紡いでみせているが、その声の震えは誤魔化し様もない。
手を伸ばしてそっと目元を拭えば、葵は心地良さそうに目を閉じて、いつかの様に俺の手をとり頬を擦り寄せた。
その柔らかな微笑みが、俺の固まった口を温かく解していく。
「…葵」
「はい」
自然に、当然の様に、それは俺の口から零れ落ちた。
「愛しています」
「はい。…………はい!」
直後、嬉しそうな声をあげたと思いきや、今度は前から葵が思いっきり抱き着いてくる。溢れる愛情を全身から溢れさせたその抱擁を甘んじて受け入れ、俺もまた彼女の細い身体に手を回す。
茜色の空の下、影と影が重なるまでに、そう時はかからなかった。
「兄さん」
「うん」
「兄さん!」
「愛しています」
それはとても単純で
「愛していますっ」
そしてだからこそ明確な言葉。
これまでに抑え込んでいた感情を全てぶちまけるかの様に、葵が再び大粒の涙を流しながら何度も何度もそれを口にする。勢いがつきすぎていつの間にやら俺が地面に押し倒されてもお構い無しに。頭を撫でて宥めすかしても、寧ろそれがたまらない様で、力が更に強くなる。
そして、最後にもう一度口付けを交わして顔を離した時、
「愛しています!」
ごく普通の女の子と変わらない、心からの満面の笑みを見せるのだった。




