第47話 重ねる手と手
『そう言えばいつの間にかお父さんがいませんでした』
『私あおちゃんのそういう一途なとこ好きよ』
母と葵、前を歩く二人の背中を眺めた後、久しぶり…って程でもないが、改めて町並みを見渡してみる。
既に多くの紅葉が数を減らし、厳しい寒さの到来を予感させるどこか物哀しい光景。
けれども、決して悲観することは無い。自然というものは俺達が思うよりずっと強いものだ。散ってしまっても、またいつか新たな種が芽吹く。
それはきっと、人も同じなのだろう。
俺がこうして過去を思い出した様に、巡り巡った思い出を、またいつか笑って話せる時がくる。
『私もおばさんの事好きですよ』
『あら嬉しい。結婚する?』
『しません』
「………」
…笑って話す、か。
会話こそ気安いものだが、母さんと話す葵の笑顔はやはり僅かなもの。勿論、笑顔そのものを浮かべる機会は比べるまでもなく増えたが。
いつか、昔の様に満面の笑みで笑う葵をこの目で見れる日は来るのだろうか。
…叶うならその時は、俺が笑わせたいなと、隣で見ていたいなと、そう思ったり思わなかったり。
乾いた風をその身に浴びながら、俺は空を仰いで目を細めた。
「見なさいあおちゃん。あれがスカシ野郎というものよ」
「かっこいいですね」
「え?あ、うん。………ね」
…それはそれとして、葵ちゃんちょっとキャラ変わってない?キャラというか気持ちどころか言葉まで真っ直ぐになってきたというか。いや元々言葉少なな分、好意はストレートに伝える子だったけどさ。
母さんが大分複雑そうな顔で唇をもにょもにょと動かしている。俺は深く突かれたくないので決して追求しないが。
「兄さん?」
「お」
などと考えていたら間近で声がして、顔を戻せば目の前に件の葵。
無表情…ではなく、そこはかとない心配を浮かべながら、眉をハの字にして俺の顔を下から覗き込んでいた。
「まだどこか痛みますか?」
「いや、大丈夫。だいじょ〜ぶよ?」
ぺたぺた。さわさわ。葵の滑らかな手が遠慮なく俺の身体をあちこち弄る。
こそばゆくてついその手をとると、寒さで冷えている筈なのに、体がきゅーっと温かくなる錯覚に陥ってしまう。
俺が入院している間も、留守を守ろうと葵は実家に帰ることは無かったらしい。何なら一睡もせず俺の傍を離れようとしなかったらしいが、そこは家族が何とか引き剥がした、と。
勿論、年頃の女の子を一人には出来ないということでその間は母さんが一緒に暮らしていたらしいが。…だからといって、そこまでしてくれるとは…
「………」
「――ん」
…こうして記憶を取り戻してみると、何と言うか、葵の何気ない行為の端々から垣間見える、その、こ、好意…が、自惚れでなければ、だけど、ありがたくて、気恥ずかしくて…嬉しくて。
小さい頃は殊更あけすけに『好き』を口にする子だったから、余計に。
そして、今もそれが変わっていないのなら。
「………」
「――さん」
…けれど、それは一体どちらの好意なのだろう。『従妹』として?『異性』として?何を今更と思わなくもないが、身体の距離が近すぎたせいか、いつの間にか心の距離まであやふやになっている。
もし、俺がそうであってほしい方だったなら、それは…凄く嬉しいことだと思う。
でも、それを一度確かめてしまえば、もう俺達は間違い無く今まで通りにはいられない。答えが、そして応えがどちらにしてもだ。
「……」
「あの、に、にいさ、ん」
「……ん?」
またまた考え事に耽っていたせいで、葵が複雑な困り顔でこちらを見つめていることに気づかなかった。
「………て、………手を……」
「あ…ごめん」
「……ぁ」
握り締めていたたおやかな手は、いつの間にやら大分温まっている。
ここにいるのは、道端で手を握り合って見つめ合う近所迷惑な男女。急いで手を離せば、微かに耳に届く名残惜しそうな声。それに敢えて聞こえないふりをして、俺は慌てて前を振り向く。
葵はそれ以上何を言うでもなく、静かに一歩後ろをついて来た。
「……ふふ」
訪れる、会話の無い静かな時間。もたもたしている内に大分距離が離れていた母さんを追いかけている時に、その微かな笑い声は聞こえてきた。
「葵?」
「いえ、何でも」
けれど、振り向いてもいつもの無表情があるだけ。本当に何でもなさそうな声に、俺は特に何を思うことも無く再び前を向く。
だから、最後まで気づかなかった。
葵が、地面に伸びる俺の影と自分の影の手と手を重ねていた事に。
■
「い〜い?暫くは大人しくしているのよ?また無理する様なら滅するからね?」
「滅するて」
「兄さんが滅ぼされたら困りますね」
久方ぶりのおふくろの味を堪能し、母子(+従妹)団欒をゆるゆると過ごせば、母さんは姉さんにゆっくり挨拶を済ませた後、父さんが寂しがっている気配がすると言いだして帰ることとなった。
そして、見送ろうとしている健気な息子に対する第一声がこれである。愛され過ぎて涙が出ちゃいそうだね。
「息子邪魔」
母さんは俺を雑に横にどかすと、葵を柔らかく抱き締める。ちょっと涙出た。
「んふふ〜。短い間とは言え、あおちゃんと暮らせて楽しかったわ〜。………弥生がめっちゃ拗ねて毎晩鬼電してきたけど」
「だろうなぁ」
「ご迷惑をおかけしました。後で電話しておきます」
弥生さんとは葵の母親である。極々普通の、ちょっと娘コンなとこがある母親。
実を言えば、入院中にも会いに来てくれた。俺が記憶を取り戻した事を知ると、涙を流して喜んでくれて。
「……娘と暮らすの、夢だったのよ」
「「…………」」
ぽつりと放たれた、何気ないその言葉に込められた想いの重さを、俺は嫌という程知っている。
葵は…どう思ったのだろう。姉の代わりとされるのは、流石に複雑だろうか。
「私も、楽しかったです」
「…そっか。良かった。…うん、良かった」
そんなことはなかった。ある訳がなかった。
葵もまた、母さんを抱き締め返すと背中を優しく叩く。
胸の中の頭に顔を埋めるその声が少し震えていた様に思えたのは、気の所為ではないのだろう。
「よし!今度こそ母さん帰る!」
けれど、顔を上げればそこにはいつも通りの元気な母の顔。
母は強し、か。…俺も、姉さんについていつか話さなくてはならない。突拍子も無さすぎて信じてもらえなかったとしても、それでも話す理由があるから。
「風邪引くなよっ」
「はいはい」
「お休みなさい」
びしっと指で敬礼をして騒がしい母が玄関を出ていけば、また静かな時間が訪れる。
夕食も済ませた事だし、風呂でも沸かすべきかと踵を返そうとすれば。
「………お」
背後から、何者かに抱き締められた。何者も何も、この場に俺以外の人間は一人しかいないのだが。
「葵?」
「すみません、少しだけ」
だからこそ、この突然の抱擁は俺の平常心をごりごり減らす訳で。
物静かな声に反して、腕に込められた力は中々に強い。つまりは葵の柔らかい身体が思いっきり俺の背に押し付けられることになる。
これはあれか。俺の忍耐を試されているのか。
「…お帰りなさい、兄さん」
「……ぁ…」
『お帰りなさい』。そこに込められた意味は、ただ家に帰ってきたことに対するものだけではないだろう。記憶を取り戻して、俺は再び葵の元へと帰ってきた。数年の時を経て、もう一度再会した。
葵の胸中を巡るいくつもの万感の想い、恐らくはその全てが凝縮されている。
「………」
「……っ……」
葵の手をとって、優しく引き剥がす。瞬間、耳に届いた悲しそうな声に込み上げる半端ない罪悪感。
誤解される前に直ぐ様俺は身体ごと振り返ると、真っ正面から葵を抱き締めた。
「に」
「ただいま、葵」
葵がその言葉に込めた想いの数と同じくらい、俺もまたその言葉に想いを込める。
伝わるだろうか。どうか伝わってほしい。うるさいくらいに騒ぐ鼓動も、抑えるのに一苦労なこの情熱も。何もかも。
葵がまた、俺の背に静かに手を回す。
何も言わず、俺達は玄関で暫しの間、無言で抱き締め合っていた。
■
「…そ…そろそろ寝るか」
「ですか」
互いに入浴を済ませて、湯の熱とは違う熱さに包まれながら、俺達は部屋で二人、また無言で身を寄せ合っていた。…お互いの手と手を微かに重ねて。
暫しの間、時計が時を刻む音だけが木霊する中、恥ずかしさが頂点に達した俺がついに観念してそう口にすれば、葵はいつも通りの平坦な声で離れ、
「…ですか」
「……、」
離れない。重なった手に力が込められて、横に寄り添っていた彼女の頭が肩にもたれ掛かると、すりすりと、マーキングの様に頭を擦り付けられる。
「…………」
途端に鼻腔を擽る、シャンプーの華やかな匂い。己からも発せられている筈なのに、どうしてこんなにも違うんだろう。
…こ、これは一体何を求められているんだ。
ゆるゆると、そして恐る恐る俺は震える手を葵の細い肩へと回す。けれど肌に触れる勇気は無い。
どうする。行くか。行っていいのか。男を見せるか穂村総護。
音も無くつばを飲み込み、俺は意を決してその腕に力を込めると――!
「(おろ)」
ミス。
それよりも前に葵はさっさと身体を離していた。そして、俺の顔に手を添えて柔らかく微笑むと―――
「お休みなさい、兄さん」
仲良く二つ並んだ布団の片割れを抱え上げて、部屋を出ていった。
………………あれぇ?




