第35話 此方の約束
──ちゃん……─
あの夢だ。顔の見えないあの子が俺を呼んでいる。
いつもは俺を何と呼んでいるのかも殆ど分からず、お礼と謝罪の言葉が微かに聞き取れる程度だったのに今回はやけに鮮明で。
──い…ちゃん……
ぼやけていたあの子の顔が、口元しかろくに見えていなかった顔が、徐々に、徐々に。
霧が晴れていくかのようにゆっくりと──
――待ってくれ。
五里霧中の中、必死に手を伸ばす。もう少し、あと少し。
掴んだっ!
柔らかな、はっきりとした感触がそこに確かに─
―兄さん―
「…兄さん」
「……、んあ?」
ペちペちと、遠慮がちに頬を叩かれる音で少しずつ微睡んでいた意識が覚醒していく。
未だ夢の中のようなぼやけた視界の中心にいるのは、小さな女の子ではなく、もうちょっと大きな女の子。そう、あの子がそのまま大きくなったらこれぐらいの。
「…起きたのなら、放してください」
「…は?」
目の前にある相も変わらずの無表情は、しかし今は何処か気まずそうに視線を左右に彷徨わせている。
そして直ぐに思い出した。あの後タケ爺の店を後にして二人仲良く手を繋いで家に帰った後、俺は俺で一人で勝手に考え事に頭を悩ませている中、いつしか眠り込んでしまったのだと。
「(…ん?)」
そして、ふと今の状況に疑問を覚えて辺りを見回した。
目に映るのは常と変わらぬ俺と葵の、二人の生活感が漂うようになったいつもの光景。どうやら居間で寝こけていた、ということらしい。まあそれはいい。
それはいいんだけど。何だろう、この悪寒は。
「兄さん…」
くすぐったそうに葵が身体をもぞつかせる度に、起きぬけから感じていた後頭部に感じる柔らかな感触が何とも心地よ…。…何でまた彼女に膝枕されているのだろう。
目と目が合った。俺達二人、無言で見つめ合う奇妙な時間。俺も彼女も無表情。いや俺は状況が理解出来ていないだけだけど。
「………」
脳裏には既にあの子の姿は影も形も無い。必死に記憶を手繰り寄せようとしても、あの夢を見たあとは不思議なくらい、いつも何も思い出せなかった。
何ともいえない遣る瀬無さと、己の記憶力の不甲斐なさに、怒りを込めて伸ばしたままの腕に力を込める。
「っ……!」
ビクンと、急に目の前の身体が跳ねた。何事かと俺は彼女を見つめ─―
―─直ぐに彼女の胸を見事に鷲づかんでいる己の右手に気がついた。
…一気に強張った身体が無意識に力を込める。
「……んっ……」
「……………………………………………ぉぅ…」
夢の中で掴みとったとても柔らかな感触の正体が判明する。
そして脳裏に蘇る苦い記憶。
ぶわっと吹き出す冷たい汗。
瞬間。
凄まじい速さで膝から転がり落ちた俺は、目の前のテーブルに膝やら脛やらをがっつんがっつんぶつけながら彼女から離れると、それはもう勢いよく土下座した。『キレのある良い土下座だった』と、後に葵氏は語る。
畳の上にも関わらずかなりの鈍い音と痛みが起きぬけの頭に襲いかかりぐわんぐわんと脳が揺れるが、今はそんな些細なこと気になるはずもない。気にしていい訳が無いっ。
「すみませんでしたぁ!!」
「頭大丈夫ですか?」
「はい!頭おかしくてすみません!!」
ガツン。頭を下げる。視界の外で葵がビクッと震えたことが窺えた。
「違」
「血が?血が出るまでやれということですねすみません」
もういっちょガツンと。床に穴が開くのではないかという勢いで。
「………」
「………一度ならず二度までも……本当に、済まなかった…!」
「も…もういいですから……っ」
そう言いつつも仄かに顔を赤くして、さり気なく胸を庇ってもじもじする、以前同じ事が起きた時ですら見たことの無い彼女の姿に、さらなる罪悪感が湧き上がる。頭の中で必死に謝罪の方法を考えるも、無念なことに寝ぼけた頭は大して役にも立ってくれない。…ここはやはりエンコか。エンコなのか。
「…兄さんはもう大丈夫なんですか?」
「え」
「ずっと深刻な顔をしていましたが…」
「…ぁ…」
そう言った葵の暗い表情を見て、漸く我に帰る。
タケ爺の店を出てからというもの、俺は今の今まで一言も喋っていなかった。考え事に夢中になっていたのは先に述べた通りだが、葵がそんな俺をどう思うかを何も考えていなかった。
…だから彼女は心配して、少しでも楽になればと、眠り込んだ俺にわざわざ膝枕をしてくれたのだ。それに微かに感じた頭を撫でるあの心地よさはきっと。
改めて彼女の心遣いがすっと身に染みていくようだった。心のもやもやが晴れていくかのような不思議な感覚。晴れた心はぽかぽかと温かさを取り戻して。
今度は下心の無い手で彼女の手をそっと握る。言葉は無かったけれど葵も振りほどくこと無く俺の手を優しく握り返す。その温もりに、また心が温かくなった。
「ごめん。迷惑、かけたな」
「…迷惑ではないです。心配です」
俺の言葉に、へそを曲げたような声を出して俯く葵。温かな心から湧き出す、苦笑。
「うん。心配かけた。けどもう大丈夫。葵のおかげだ、ありがとう」
「…違う……」
「…え」
「私のおかげなんかじゃない……」
けれども俺のお礼は、他ならぬ葵の手で否定された。
俯いたまま、葵が握った手に力を込める。
その手は小さく震えていた。それはまるで、標を見失った迷子の様に、そんな悲痛な想いが込められている様な弱々しい震えだった。
「…兄さん。私は寧ろ卑怯者なんです」
「………」
「…兄さんの為と自分に言い聞かせて、兄さんから目を逸らしていた」
ぽつぽつと、震えと同じく弱々しい声が彼女から発せられる。
それが何を意味しているのかまでは分からないけれど、嘘をついている訳ではないことくらい分かった。
「……私は、兄さんの隣にいてもいいのでしょうか……」
握る力が強くなる。まるで罰を求めるかのように身体を竦ませているものだから、その姿はいつもより何とも儚く、頼りなく見えた。
…資格が必要な程、高尚な人間になった覚えはないけれど、今、葵が欲しいのはそういう言葉ではないのだろう。
「…もし、兄さんが望むのであれば私は―」
ならば俺が言うべき言葉とは─
「最近…」
「…っ、」
考えた。考えて、考えて。思い出すのは不思議なことに、いつも葵の姿だった。それは、今までの思い出よりもよっぽど印象強く。
共に勉強をして、墓参りをして、誕生日まで祝ってもらって。たったそれだけだ。長い時間をかけて絆を育んだ訳でもない。なのに俺の真ん中には強く、強く、いつの間にか彼女が存在している。
いや、きっと違うのだろう。恐らくは、もっともっと前から──
最初から答えは出ていたのだ。
「割りと毎日楽しいんだよな」
「……え」
「人助けで走り回ってた時は無意識で気づき辛かったんだけど、まったりゆっくりと過ごすのも、案外いいなぁって」
周りに目を向ける。誰かのためではなく、ただ何となく。
すると不思議なことに、世の中意外と楽しいものが溢れているものだ。ぶっ倒れて漸く分かった気がする。漸くというか、今更ながら。
でも全部が全部、無駄だったなどとは思わない。チビ達然り、ジジババ然り、理由は何であれ、楽しいのは俺が自ら動いたからこそ作り出せた結果。そして結果が繋がりを作り、繋がりが紡いだ俺の一つの可能性。
あの夢の記憶が導いてくれた。そしてそうなったきっかけは─―
「…多分、葵が来なかったら気づかなかった」
「……兄さん」
「もう一度になるけど、葵のおかげなんだよ」
隣に君がいてくれたから。
だからまた……………、また?
いいや、考えるのはそれこそまた後でいい。今、目の前にいるのは葵だ。俺の従妹で、大切な家族だ。
「…だからありがとう」
「ぉに……いさん」
だからまた。
「葵が嫌じゃなければ、もう少し一緒にいてほしい」
「……」
「…あー違うな。…俺が一緒にいたい、です」
「………ですか」
静かにそう呟くと、暫くの間、彼女は何も言わなかった。
…言わなかったけど、いつしか暗かった顔は微笑みに変わっていた。
今まで見せたどんな顔よりも違う綺麗な笑みに、俺はだらしなく見惚れて
「兄さんはすぐ安請け合いしますから」
「う、うん…?」
どこまでも目を奪われて。
「だから、傍にいます」
握っていた手を一度放して、ゆっくりと指を絡める形にすると、手繰り寄せたそれに葵が頬を緩やかに擦り寄せる。
そのまま仄かに色づいた笑みで見つめてくるものだから、顔に一気に熱が昇って、けれど愛おしそうに片手を握られているものだから、隠すことも出来なくて。
「…兄さんは」
「…傍にいる」
「ですか」
同じタイミングで二人で頷き合って、二人で吹き出した。残念ながら、流石に葵は声を上げて笑うようなことは無かったけれど。
でも十分すぎた。彼女もこうやって笑える、ごく普通の年頃の女の子なんだって、それだけで大量のお釣りがくる。
「…改めて、これからもよろしくな」
「はい…、はいっ。兄さん。私は、葵は貴方の傍にいます」
手を握る彼女の顔は、無表情とは程遠い穏やかな微笑み。
彼女の中で、俺の中で、何かが変わった。それが何を意味するかはまだ分からないけれど、唯一確信できることは―――




