第30話 だから私は。
「美味しいです」
「それは何より」
人々が皆、家族と、そして友達と笑顔を浮かべて練り歩く夜空の下でただ一人、場違いな無表情で私は兄さんと共にベンチに座って寛いでいた。
私の手の中には兄さんが鮮やかに作り上げたたこ焼き。何の変哲もないただのたこ焼きの筈なのに、不思議と私の口に合う。……えっと…、これぞ、まさに、たこのほーせきばこや〜?
「葵?」
「………、」
もぐもぐしたまま虚空を見つめ、急に動かなくなった私を不思議に思ったのだろう。兄さんが徐ろにこちらを覗き込んでくる。
あなやあなや。眼前に現れる整ったお顔にぽぽぽと顔に灯る熱。まさか私が無表情の裏で誰もが唸る食レポを繰り広げているとは夢にも思わないであろう兄さん。葵はまた一つ成長いたしました。
「食べますか?」
けれど悟られるのはちょっと恥ずかしかったので、照れ隠しも兼ねて私はたこ焼きを一つ、爪楊枝に刺して兄さんに差し出した。
「はい、あーん」
「え」
口元で存在を主張する真ん丸に、兄さんがピタリと停止してしまう。
まだ再会して間もない時、こうして兄さんにあーんをしたことはまだまだ記憶に新しい。…新しい、はずだけど、あの頃よりもちょっぴり気恥ずかしさは増している。
あの頃は深く考えもせずあーんしたものだけど。…距離が近づいた分、寧ろこの様な行為で変なすれ違いが発生したりするのだろうか。それはちょっと嫌だ。
「あ」
固まった空気に流石にいたたまれなくなって手を戻そうとしたその時、兄さんがぱくりと私が差し出したたこ焼きを口にした。
「…うん、美味しい。流石俺」
「ですか」
口元に付いたソースを拭って照れくさそうに笑う兄さんを眺めながら、私は大した言葉を返すことなく、返せるはずもなく、何とも落ち着かない胸中を押しつぶすつもりでぱくぱくたこ焼きを口にする。元より量も少ない器は、あっという間に空になる。
「…そんなにお腹減ってたのか?」
「………」
…流石にはしたなかっただろうか。兄さんの中で私がよく食べよく眠る腹ペコキャラになりつつあることをひしひしと感じ取り、不満を乗せた瞳をじとりと向ければ、宥めすかせる様な困り顔で、やはり兄さんは笑う。
爪楊枝のほんの小さな間接キスに、呑気な私達は気づかない。
■
「焼きそば、りんご飴、綿菓子イカ焼きかき氷。大漁ですね」
「……よく入るなぁ…というか食い合わせ……」
「出店の食べ物は別腹です」
両の手に抱え込める程の大量の食料を難なく完食してみせた私に感嘆した顔を向ける兄さんであるが、そもそも私がちょっと目を向けるだけで『あれ食べたいのか?』とか優しく声をかけてくる兄さんにも非はあると思う。そんな柔らかい笑顔を向けられて私が断れる筈がないではないか。
「兄さんも食べてください。私だけがゴキゲンな食いしん坊だと思われます」
「食べてる食べてる」
さりとて私も一応女の子。般若面を頭に引っ掛け右手に綿菓子、左手にりんご飴、隣の男はもれなく手ぶら。お祭りを満喫しているのは明らかに私一人だけ。周りの微笑ましい目がちょこっと恥ずかしいのだ。
「もうすぐ花火もあるし、お腹壊したりするなよ」
「む。年頃の女の子にかける言葉ではありませんね」
「なら、家族への心配ってことで」
「…ですか」
そう言われてしまって、強く出れる私はいない。
これで何度目かという照れ隠しを兼ねて、私は兄さんの口にりんご飴を差し出す。大きな口に見合わぬ小さな量をぱくりと口にして、兄さんは楽しそうに笑う。
私もまた、続いてりんご飴を口にする。……何だろう、何かとても重要なことを見落としている様な?
色々な店を回って、時には冷やかして。
何処かを訪れる度に、一歩後ろで微笑む兄さんを、私は幼子の様に振り返る。
時には二人で、時には私が後ろに。
兄さんは笑っていた。
「………ふふ………」
楽しんでくれているんだ。こんな無愛想で口下手な私といても。
楽しませる事が出来ているんだ。それが何よりも、嬉しくて、何よりも―――
―――――……。
「……はあ………」
町の一角にある小さな公園、その片隅にあるベンチで、さっきまでの浮き足立った気持ちなど彼方へと吹き飛ばして、私は一人座り込んで落ち込んでいた。
「痛」
小さく奔る痛みに顔を顰めながら足元をみる。切れた鼻緒、そして滲む僅かな血。
前の道には大量の人波。これまでここまで盛況だったことがかつてあっただろうか、という勢い。
きっと反動もあるのだろう。世の中の目まぐるしい移ろいの中、祭り事というものはどんどん規模を小さくし、そして徐々に久しくなっていく。
だからこそこうした一瞬の一時を、皆少しでも大切な誰かと心安く過ごしたいと思うのは至極当然のこと。
そしてその結果、弱い私は人の濁流に流され流され流され続け、兄さんと見事にはぐれた。それもまた至極当然のこと。はいそうです迷子です。
あおさん、お姉ちゃんさん、そして私。彼女達との違いと言えば、私はそういうお年ではないはず、ということか。自覚はしているのでそんな目で見ないでください。
「………」
懐から携帯を取り出して、眺める。振ろうが叩こうがうんともすんとも言わない。
…ここで一つ、皆様に私のことを話しておこう。
世間一般的に見て他者との繋がりが極端に薄い、所謂ぼっ……人付き合いの決して得意ではない私であるが、辛うじて夕莉というかしまし乙女のおかげで、その称号を得る名誉をひとまず回避出来てはいた。顔に出ないせいで分かりにくいかもしれないが、あの子の明るさに私は確かに救われている。何故、あの子はよりにもよって私に声をかけようと思ったのか、今でも分からないけれど。
けれどとれんどに敏感な彼女と違って現代に上手く適応出来ていない私は時々、夕莉が度肝を抜かれる様な行動をすることがある。…らしい。
今回この場で起きたことも、その一つ。
「……携帯………最後に充電したのいつでしたか……」
ということである。
兄さんと番号を交換したとはいえ、もとよりろくに触ることも、何なら携帯することもたまに忘れる私。
夕莉は学園で嫌でも顔を合わせるし、兄さんは直接家で話せばいい。というよりやっぱり直接話したい。結局音の波長よりも、生の兄さんに勝るものは無い。その気持ちが先走りすぎて、最近またこの子の扱いが雑になっていた。
あの子は私のそうした姿勢がちょっぴり不満でちょっぴり寂しいらしく、『話したいならその時直接言えばいいです。その辺りで充電しておくので』『そうじゃな〜い!!』といつもぷんぷんしていたが、成程、こういう時のためだったのか。流石は現代っ子、勉強になる。
「………」
依然として人波が止むことは無い。寧ろ増えてきただろうか。
それもそのはず、直に夜空には大輪の花が大きく立派に咲くだろうから。一目見ようと皆がこぞって。
『わーい!!』
『こらこら、危ないぞ?』
父親に肩車された幼子が、一足早く満開の笑顔を小さな空の下に咲かせている。それを眺めて私も笑う。けれども相変わらず歪な笑顔に含まれるのは、喜びよりも自嘲の方が大きかったが。
私にもあった。ああいう風にただ幸せだけを噛み締めて素直に笑えた頃が。
悲しいことがあった時、年相応に拗ねていた時、私はよくこうして公園に来た。泣くなり騒ぐなりして己の中のもやもやの整理をつけるために。
一通り騒いで、己の幼稚さにうんざりして肩を落として。漸く、家に帰るために肩を落として踵を返す。そうすることでしか、発散できる方法を知らなかったから。
結局、私はあの頃から何も成長出来ていないのかもしれない。
「あ」
大きな破裂音と共に、闇が向こうから途端に明るく照らされる。
前方からあがる大きな歓声。ここからではろくに見えないけれど、音と光だけでも感じ入るものがあるのだろう。
私は顔を上げなかった。皆と共にはしゃぐ気分にはなれないから。…上げれなかった。
………。
……………。
「(ああ…)」
「(一緒に見たかったな…)」
欲張り過ぎた罰だろうか。
優しさに甘え過ぎたツケが、今になってやってきたのだろうか。
別にいいではないか。わざわざ時間まで作ってもらって、散々連れ回したのだから。
十分すぎるではないか。これ以上、何を望むというのか。
微かに滲み始めた視界を振り払う様に頭を振ると、私はゆっくりと立ち上がる。痛みは依然変わらないが、多少の無理は効くだろう。後でどうとでも治療すればいい。
謝らなければ。迷惑を掛けたことを。あの頃と同じだ。罪悪感で頭をいっぱいにして、頼りなく歩を進める。
そう、同じなのだ。何も変わらない。
一通り騒いで、己の幼稚さにうんざりして肩を落として。漸く、家に帰るために肩を落として踵を返す。
「『葵』」
そうして歩き出した時、入口にはいつだって貴方がいるのだ。
「……っ悪い、……遅くなった」
「―――――」
汗だくで、膝で息して、苦しそうで、それでもなんてこと無い様に笑う貴方が。
「(…ああ)」
ああ。
そうだった。
私を見つけるのは、いつもあなただ。
「兄さん」
「…あ〜……鼻緒切れたのか?歩けそう…いや、難しいか。取り敢えず、ほら」
そう言って貴方は、昔と同じように手を差し出してくれる。
大きな手。力強い手。勇気をくれる手。温かい手。
握りしめれば、握り返してくれる。私が込めた想いと同じだけの力を込めて。
貴方は何時だって、臆病な私を引っ張ってくれた。
だから、私は貴方を支えたいのです。
だから、私は貴方といたいのです。
だから、私は貴方が好きなのです。




