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学び舎のつながり 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 どうして、学校に行かないといけないのかなあ。

 青春期にこう考えた人の数は少なくないだろうと思う。実際、大人になったいま、似たような問いをぶつけられる機会も増えた。いつの時代も子供たちの思考の根っこは変わらないんだろう。

 返す答えは、また大人の数だけある。行くべき、行かないべき、どちらでもいいと大まかな方向性を定めたうえで、それぞれの考えを話していく。

 その人たちのたどった人生、ひとつひとつがまぎれもない真実だからな。どれも本気で語れば熱も入り、それでいてウソじゃない。


 私自身かい?

 そうだね、行っといたほうがいいんじゃないかな派だ。

 勉強、友達関係とかもっともな要素はあるけれど、私が考えるのはもうちょい深め。

 自らの身体、生命に関しての話だ。毎日のコンディションを整えるのと同じように、学校もまたその役目を持っているんじゃないかとね。

 私の昔の話なんだが、聞いてみないか?



 子供のころの私にとって、学校はなんとも帰りがたい場所だった。

 勉強も嫌いじゃなかったし、友達と過ごす時間は楽しい。許されるなら、長くとどまっていたいところだったが、下校時間は存在する。

 いざみんなを見送って、家路に着くことを実感するとどうにもさみしい心地になった。

 家の居心地が悪いわけじゃないけれど、家族には家族で振るべき話題が、友達とは違う。

 腹を割って話すことができても、趣味に対する関心や理解度の度合いは、友達に及ばないこともしばしばだ。

 自分が力を入れているものに、首をかしがれるとがっくりくる。その点、同好の士の存在はありがたいもので、互いに心ゆくまでディープな話題に浸かることが可能。

 まだ所属するコミュニティの数も限られがちな年少期において、学校は得難い環境であり、そこでの話題の共有こそ家庭でさえできない、楽園のごとき存在であったわけだ。



 毎日、学校へ向かうときには、その語らいを想像して胸が高鳴る。

 そうして、深く話せる相手が休みだったりすると、反動でがっくりくる。その日も、いつも深く話すことができる友達が休みだとわかり、がっくりと肩を落とす自分がいることに気づいたわけだ。

 一時間目から移動教室だが、腰が重い。

 他のことを話す友達もいないでもないが、自分の中で今まさに熱中していることこそ集中して語りたく、他の優先順位が断然下になってしまう気持ちだ。自然、その聞く姿勢もおざなりになってしまう。


 ――今からでも、あいつがやってこないかなあ。


 などと、無茶なことをぼんやり頭の中で考えていた矢先。


 すっと、右腕に管を刺されたような痛みが走った。

 その秒に満たない間で、だるく重みを感じていた腕が、すっと軽くなった気がしたんだ。

 それだけじゃなく、冷たいものを飲んだ直後の胸のあたりみたいに、身体の内から冷気がぴしりとひた走り、腕全体に染み渡っていく。

 はたと足を止めてあたりを見やっても、細工はおろか、こちらの様子をうかがうような相手は見当たらない。


 よほど手の込んだいたずらか。あるいは体の何かしらの発作か。

 悠長に考えている間に、冷気は絶え間ない血液の循環に押し流され、腕は元の暖かみを取り戻してしまう。

 移動後の授業中も、何かと腕へ気をやる私だが、おかしなことは続かず。首をかしげながら授業を終えたまではよかったが、挨拶とともに席を立ちかけたところで。


 また来た。

 今度は朝に感じていた、腰の重さだ。

 あのときは気持ちの沈むまま、漬物石でも胴体にくくりつけたような感触だった。

 それが今度はひと一人をもろに担ぎ、そのうえで立ち上がろうとしているかのようなしんどさ。

 一度あげた腰を、また下ろしかけてしまうなんて、ぶざまな格好。まわりのみんなも、先ほどよりわずかに注目してきたが、さほど心配はしてくれない。

 はた目には、私が勝手に尻もちを着こうとしているようにしか、思えないだろうしね。



 ここでヘタに弱った姿は見せられない。なめられる材料を提供したくはないからだ。

 男は自分が強くたくましくありたいと、たとえ実情が伴わなくても、見栄を張りたく思う時があるからな。

 平気なフリをして、教室への道を急いだ。

 真っすぐ伸びる廊下などは問題ないが、この移動教室は自分のクラスからひとフロア上だ。

 下り階段が怖い。正体はつかめないのに、重力はしっかりつかんでいるのか、一歩段を降りるたび、またずしりと前のめりになりそうな重みがかかってくる。

 きゃっきゃと騒ぎながら、軽やかに階段を駆け下りていく他の連中をしり目に、手すりにすがってヨタヨタと下っていかねばならない。見栄張りたい勢としては、屈辱だ。


 途中の踊り場へ降り立った時など、ぐっと首が締まるような心地さえした。

 つい手を首回りへやるも、触れるは自分の肌ばかり。ひもや髪の毛一本さえも、その指先は触れられない。

 本気で保健室休みを考えたほうがいいんだろうか。

 これまで無欠席をほこりのひとつとしていた私にとっては、人生の重大事。どうにかこのままこらえていければ……と、下り階段後半戦。

 なおも気を抜けない道程がようやく終わる、その最後の一段を降りきって。



 今度はうなじの後ろから。どっと入れ込む清き水。

 季節外れのアイスクリーム頭痛が、たちまち脳内を席巻した。勢いはそれのみに満足せず、顔の内側を満たして下へ。

 肩から両腕、腰から両足。主要なものから末梢まで、氷の中に閉じ込められたと思うほど、隅々までを冷え切らせる。


 一瞬、意識をやるかと思うほどの凍てつきが満ち、そしてたちまち消え失せた。

 先ほどまでと打って変わった、身体の軽さ。のしかかる重さはもう、そこにはない。

 今朝の腕と同じような切り替え具合は、改めてこの身を産み直してもらったかと感ずるほどだった。

 当然、そのことも私自身しか知るところにない。いきなり平然とした顔ですたすた歩き出す私の姿も、また変なヤツに見られただろうかね。



 この奇妙な体の重さと回復は、数日間続いた。

 ちょうど、例の友達が学校を休んでいる間とぴったりあったんだ。彼が登校してくるや、この不思議な兆候はぴたりと止んでしまったんだよ。

 彼が後から話してくれたんだけど、実は彼の患った病というのが、急に発作の来るもので、ちょっとでも処置が遅れると命にもかかわりうる重いものだったそうなんだ。

 途中、意識を失っては身体がたちまち冷え、意識を取り戻してまた暖まる……そのような体温の急激な低下と回復を繰り返すこともあったとか。

 その意識の飛ぶときが一番危ない時らしくて。照らし合わせたところ、私が例の重さを感じ、また回復したときと合致することばかりだったんだ。


 あの体験は、彼の重さを肩代わりし、また回復のための力を送る……そんな時間だったのではないかと思うんだ。

 絶えず働く、身体の臓器の仕事と似ていてさ。

 その、いざというときに互いの命を救いうる「つながり」をそなえていくのも、同じ年代が集まる学び舎の性質なのかもしれない。


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