愛の向き
愛が重いとかよく言うが、それは重量の差ではなく、相対的な力の向きの差だと私は思う。
例えばここに、アメリカンクラッカーのように紐で繋がれた二つのボールを用意する。それぞれのボールをAさん、Bさんとしてカップルに見立て、Aさんを俗に重いと言われるメンヘラということにする。メンヘラは相手に対する自分の愛よりも自分を愛してくれる相手の事ばかり考えているので、力の向きはBに対してAの向きに働く。そこでBはAの引っ張る力(愛)と同じだけの向きと力でAに愛を伝えなければ、紐に負荷がかかり、人はこれを比喩として「重い」と感じる。AとBの力が紐に負荷をかけなければ何も問題はない。
ではなぜ私は「重い」とか「軽い」が違うのかと聞かれれば、重量で例えてしまうと、力が下向きにしか働かないからだ。
ここでまた仮に重い愛の一例として「子供が絶対に欲しい人」と「恋人さえいれば他は何もいらない人」を出してみる。これはどちらが悪いというわけではなく、あえてここでは平等に「重い」としてみる。
重さを比べるものは天秤だ。天秤に二人を乗せてみよう。するとどうだろう?どちらも同じように重いので釣り合ってしまった。ではお似合いのカップルかというと全くそうではない。
ここで先程のアメリカンクラッカーを使ってシミュレーションすると、二人の力の向きが正反対であることがわかる。紐は「プツン!」と切れてしまう。
力の向き、すなわち愛の志向は人それぞれだ。どれだけお似合いでもピッタリ同じ方向に動く二人なんておそらく存在しないだろう。時々引っ張りあってギスギスして、時々ぶつかり合って、それでも似た力さえ働いていれば自然の法則でまた安定する。
誰が重いとか、誰が軽いとかではなく、それは「向きが違った」というだけである。