皇太子殿下の絶えない悩み
パトリック=ラル・キドニアは悩みを抱えていた。
帝国の若き太陽と呼ばれる皇太子である彼を悩ませるのは、いつだって彼の婚約者である。
もっとも、彼女自身に問題があるわけではなく、パトリックが勝手に思い悩んでいるだけではあるのだが。
彼が十歳、彼女が八歳の時に、両家の取り決めによって婚約者となった、アレイス=フェニア・セネルラーダ公爵令嬢。
血筋も家格も申し分なく容姿にも優れ、八歳にして既に淑女の鑑のように凛として美しかった彼女に、パトリックは一目で恋をした。
自分の婚約者がこんなにも素晴らしい女性であることが子供なりに誇らしかった。
将来彼女を国母として迎える日がくることを、パトリックは信じて疑わなかった。
風向きが変わったのは、彼女が十歳になった頃である。
流行り病で高熱を出したと聞いて心配した後頃から、彼女が、必要最低限の公式行事でしか会ってくれなくなった。
もちろん本気で会いたいと願えば、同じ皇宮内で妃教育を受ける彼女と会えないわけではない。
だが、ほとんどの場合、その妃教育の忙しさを理由に面会を断られた。
(私は嫌われているのだろうか。)
パトリックとて、美しい皇后似の自分の容姿や皇太子候補として教育を受けてきた能力に劣る点があるとは思わないが、もしかしたらアレイスには自分がさほど魅力的に感じられないのかもしれない。
そんな不安を抱えながら、十五歳で成人を迎え正式に立太子した時、傍らに寄り添ってくれた彼女はますます美しくなり、盛装した姿は息を呑むほどだった。
社交界デビューもしていなかった少女の噂は瞬く間に貴族間に伝わり、その噂によって、パトリックは初めて、彼女の多忙の本当の理由を知ることとなった。
近年体調の優れない公爵と、年の離れた幼い公爵令息に代わり、領地経営の多くを担っていたこと。
さらにはいくつもの事業の総括として、昨今の貴族を中心とした流行の発信元となっていたこと。
その事業の功績により、領地平民の生活水準の向上を成し遂げていたこと。
アレイスがそこまでの才女であったことが、二人の間に小さな溝を生じさせる。
「セネルラーダ公女はこのまま公爵家の家督を継ぐおつもりなのでは?」
「では、皇太子との婚約もいずれ解消されるのだろう。
皇太子には新しい婚約者が必要だ。」
勝手な憶測の生んだ噂の末、パトリックの元には公然と縁談が持ち込まれるようになり、セネルラーダ公爵家はそれについて何の言及もしなかった。
それは、公爵家で実権を握るアレイスが何も言わなかったことに他ならない。
皇室を信頼しているとも、皇太子妃の座に興味がないとも取れるそれを、ほとんどの上級貴族は都合よく後者と見なしていた。
アレイスが成人を迎え、パトリックのエスコートにより正式に華々しい社交界デビューを果たし、これで巷の噂など払拭出来ると思っていたそんなある日、教会から皇室に、パトリックと『聖女』との婚姻の打診がもたらされた。
「聖女様はこの国のために教会が神の下よりお招きした気高い存在です。
この国の皇太子妃に、これ程ふさわしい女性はおられません。」
肩までかかるぬばたまの髪に、深い夜闇のような瞳。近隣諸国に類を見ない特徴の、だがとても美しい容貌をした少女。
皇帝陛下への謁見を傍らで見ていたパトリックも、当然その姿を知っている。
自分の状況がまだよくわかっていなかったのだろう、不安げに言われるままに謁見と爵位授与を受け、失神しそうな顔色をしていたのが印象に残っている。
ミヤシロ・カズハ。教会から神の子としての名『ファディ』を贈られ、聖女の位とともに侯爵相当の身分も陛下によって授けられた、カズハ=ファディ・ミヤシロ。
異世界から召喚されたという聖女はこの世界の様々な知識を予め持ち合わせており、予言のようなことまで行って見せているのだという。
(そんなに神聖な存在ならば、教会で囲い込んでおけば良いではないか。)
教会が国政に介入するのにまたとない機会であるためだろう、パトリックが遠回しにその意向を伝えても、教会は事あるごとに聖女を皇太子妃にと推挙してきた。
その聖女が、社交の場にも滅多に顔を出さないセネルラーダ公女に関心を持っているという噂が流れてきた時、パトリックはいよいよ、己の身の振り方を考えねばなるまいと決意した。
万が一にも、自分の正当な婚約者であることでアレイスが危害を受ける日が来てはならない。
もしアレイスが本当に自分との婚姻を望んでいないというのならば、パトリック自身が身を引く決断も必要なのではないだろうか。
いくら由緒も力もあるセネルラーダ公爵家といえども、皇室と交わした婚約の解消を公爵家側から申し出ることなど、到底不可能であるのだから。
その頃になると聖女の存在も国中に知れ渡り、聖女を皇太子妃にと推す世論も強まってきていた。
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「アレイス様! どうか皇太子殿下を見捨ないでください!」
思い悩むパトリックを見兼ね、三者の意向のすり合わせをせよという皇帝の計らいで宮廷内で開かれた内密の小さな茶会で、開口一番に聖女が口にしたのは、意外な言葉だった。
「聖女様、それは一体どのような……。」
「カズハと呼んでください、アレイス様。
私はただの一般市民です。それも、この世界の人間ですらない身です。
教会が私のことを皇室にごり押ししているのは知っていますが、生物学的に同じ『人間』であるかもわからない私を皇太子妃にだなんてありえないんです。
仮に私が殿下に嫁いでも、後継ぎは生まれません。」
「聖女よ、それは『予言』であるのか?」
未来を見通した聖女の言にパトリックとアレイスが目を見開いていると、聖女……カズハは、深く頷いた。
「但し、予言、というのは正確ではありません。
私はこの世界を、ええっと……そう、物語で知りました。
私の世界では、『ファディ』が見るこの国での出来事が、すべて物語になっていたのです。」
その『物語』の中で、この茶会において、アレイスは自ら身を引き、パトリックもそれを引き留めなかった。
世論の推すまま皇太子に嫁いだ『ファディ』は殿下を支えたが、彼女らの間に子は生まれず後継者問題に発展し、爵位を継ぎ女公爵となったアレイスも独身を貫き、弟である公爵令息を養子に迎えたというのである。
「これはこの場の誰も幸せにならない結末です。
もしかしたらアレイス様もご存知なのではないでしょうか?」
じぃっとアレイスを見詰めるカズハの目は真剣で、そうだったらいいと願ってすらいるように見えた。
「何故そのようなことを?」
困惑するアレイスに助け舟を出そうと、パトリックがカズハに訊ねる。
「流行り病で倒れられた後の手腕が子供のものとは思えないほど素晴らしく、まるで私と同じく未来を知っているかのように見事だったと聞いていたからです。
なので、もしかしたらアレイス様は、私と同じくこの世界のあらましを知っている……私の世界の人なのではないかと考えました。」
その言葉に、パトリックもアレイスも再び目を見開いた。
「この世界に私一人が異物であると思うと心細くて、そんな幻想を抱いてしまいました。
ですが、今、貴女の目を見て違うと確信しました。
忘れてくださいアレイス様。貴女の手腕は正当なものであったのに、あらぬ邪推をしてしまい申し訳ありません。」
「カズハ様……。」
確かに、流行り病を境にアレイスはその才能を発揮しだした。
人が変わったようだとすら噂に上った。
だがそれは、公爵家内、家族と使用人の多くの者が流行り病に倒れ、幸い回復の早かったアレイスが長子として家内を指揮し、一方流行り病の症状が重く後遺症の残った公爵が床に臥すことが多くなり、アレイスが必死に公爵家と公爵領を支えた結果である。
社交界の華の一人である公爵夫人から得た情報を元に貴族の流行を先読みし、領地の産業と絡められる物を見付ければ夫人を広告塔に社交界へと流行を広める。
公爵家の社交の一切を母である公爵夫人に任せ、自らは領地経営と妃教育の両方を完璧にこなした。
妃教育の中に皇太子の、ひいては皇帝の補佐をするための治世教養や経営に関する項目があったことが、アレイスを助けた。
「お詫びというわけではありませんが、アレイス様、皇太子殿下、私にセネルラーダ公爵様を見舞う……いえ、治療を行う機会をください。
私もただ異世界から来たというだけで『聖女』などという大それた肩書を与えられたわけではありません。
この世界に来ることで発現した『癒し』の力で、公爵様の回復の手助けをさせてほしいのです。」
「お父様の……カズハ様、それは教会の秘匿しているという神の奇跡なのではないのですか。」
「その通りです。
教会は私の能力を皇室と教会に協力的な有力貴族にのみ使うよう制限して、皇太子妃争いの相手となる公爵様に手を差し伸べることを許しませんでした。
ですが、公爵様が回復なさったら、アレイス様が公爵家を背負う必要もなくなり、アレイス様も安心して殿下に嫁ぐことができるのではないですか?」
その言葉に思わずかぁっと頬を染めたアレイスに安心したように微笑み、それからカズハはじっとパトリックを見た。
アレイスに意向を告げてはいるが、それを実行するためには皇太子であるパトリックの助力が必要だと訴えているのであろう。
「それを行えば、聖女よ、其方の教会での立場が悪くなるのではないか?」
「私のことを飼い殺しにしている教会なんて、どうでもいいんです。
教会からすれば私は、世間知らずの手駒でしかないでしょうから。
でなければ、世継ぎが産めないという私の『予言』も無視して、殿下に縁談を持ち掛けたりしません。」
腕を組んでふんっと憤る様は、本当に教会に不満を抱いていることを示しているようだ。
「もっとも、この世界では誰とも子供を作れないかもしれないと言わなければ、私は教会の上層部に嫁がされていたかもしれませんが。」
「であれば、教会は一時の栄華のため、皇室に継嗣を作れない其方を嫁がせようとした、ということか。」
「はい。皇室への侮辱でも計略でもお好きなように罪状を作り上げ締め上げてもらえると、私も胸のすく思いがすると思います。」
「ふむ、面白い。」
パトリックは軽く思考を巡らせると、じっくりとカズハの目を見据えた。
「カズハ=ファディ・ミヤシロ侯爵よ、教会の庇護を捨て、私の配下に加わる気はないか?」
「……えっ?」
一瞬意味が理解できないように沈黙したカズハが、次の瞬間血の気の引いた顔色で訴えた。
「殿下、ですから私は一般市民……えっと、しがない平民でしかないんです。
爵位なんて貰ったはいいけどお飾りでしかなくて、教会でもただ言いなりに暮らしていただけで、貴族としての生き方なんてわかりません!」
「貴族としての振る舞いなど、これからアレイスを間近に見て見習えばよい。
皇太子妃となるアレイスの側近が欲しいと思っていたところだが、信用できる者がいなくて難儀していたのだ。
アレイスを見る其方の慈しみの目を見て、信ずるに値すると確信した。彼女を助けてやってはもらえないだろうか?」
「アレイス様を……ですか?」
その時頬に差した高揚を、パトリックは見逃さなかった。
カズハは始めからアレイスに好意的な提案しかしていない。
ついさっき初めて出会ったにも関わらず、アレイスに最大限の協力をしようという思索を持ってこの茶会に臨んだのであろうことも窺える。
カズハから見ればこの世界は『物語』であるのだという。
物語において、少年少女は騎士や姫に憧れを抱くものだ。
カズハにとってそれは、アレイスだったのではないだろうか。
「アレイス様のためだとおっしゃるなら……頑張れるかもしれません。」
「カズハ様……!」
今日も今日とて、パトリック=ラル・キドニアは悩みを抱えている。
昨今の専らの悩みは、皇太子妃付きの筆頭侍女として正式に皇宮に仕えることとなった元聖女が、愛しい妻の顔を見に来る暇があったら、先に公務を全て済ませてくださいと正論を突き付けてくることである。
END.