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シエーナ

作者: 遠 京

黒くすり減った石畳みの路地がかなりの角度のある深い谷になっている。シエーナの路地は昼でも暗く狭かったり少し広かったりの迷路である。坂路を下まで降りて上がる時は行こうとする先の通りが視界から消え一瞬不安にさせる。シエーナの路地を歩く人々はほたて貝の形をしたカンポ広場に誘い込まれていってしまう。民衆をすり鉢の底に集める中世の支配者の思惑通りに設計されているのだ。マンジャの塔を右側に見上げながら、カンポ広場をすり鉢の底までおりてすぐの路地を左にはいると、パスタを出すトラットリア(お食事処)がある。お客が入るのを邪魔するかのようにまいにち入口に椅子を出してノンナ(おばぁちゃん)がドッカと座っている。人ひとりがやっと通れる地下への階段があり10段ほど下りると天井が低く15、6人しか座れないパスタを出す店だ。カンポ広場から見える入口にかなり歳老いた老婆になんの遠慮もなしにジロッと睨らまれているような感じがいけないのだろう、観光客の人は絶対に入らない。


「ノンナ!こんにちは! げんき?」

「まぁ なんとか生きていますよ。お嬢ちゃんひさしぶりだね。」

「毎日きたいのよ。でも・・」

「おや! そこのアメリカさん あんたは駄目だよ。」

「またですか、ノンナ!いいかげんにしてくださいよ。」

「そうかい、ワタシァ、アンタを知らないね。」

「ロッセラといっしょに、もう何十回も食べに来ていますよ。」

「ロッセラ嬢ちゃんと一緒じゃしょうがないね。」

「おぼえてくださいよ!」

「アメリカ人は禁止なのさ。」

「ぼくはシエーナ大好き!もうシエーナ人ですよ。」

「そうはみえないね。」

「ノンナ!入ってもいいでしょ。」

「ふん・・」


ジョージはロッセラにウインクして耳元に小声でノンナの悪態をつきながら、階段を下りた。半地下で天井の低いトラットリアには年季がはいった椅子とガタガタするテーブルが三台あり奥の方で老人二人が座ってなにやら喋っていた。パスタはお客が来てからゆでるので時間がかかるし、メニューはタリアテッレ・アラ・グーたったひとつしかないけれど抜群に美味しい地元のパスタ専門店だ。

ロッセラはちいさい時から愛嬌のある子供だったから、カンポ広場のまわりの商店の生粋のシエーナの大人たちから可愛がられた。パン屋のおじさんが見守ってくれ、ノンナには叱られたり勇気づけられたりした。ノンノにはたくさんの小言を頂戴したし、女としての生き方を教わった。少女から女への体が変わってゆく移行期は母からなにも聞けない辛さを感じた。母親を八歳で亡くしたロッセラにとっては本当のおばあちゃんのようにありがたい存在だ。

ノンナのアメリカ人嫌いは、このあたりでは昔から有名でその原因は定かではないが、第二次世界大戦で戦死したノンナの旦那さんに起因しているらしいがご近所中誰も真意は知らない。

初めてジョージを連れてパスタを食べに行った時のノンナは今までに見たこともない形相でアメリカ人のジョージを拒否した。前もってロッセラに聞いてはいたジョージだったが、ロッセラと一緒だし大丈夫だろうと高をくくっていた。ノンナが目をむいて入店を許可しない態度は想定外でジョージ自身も驚き結局その日はパスタにありつけなかった。

さすがにロッセラも怒って何日もノンナのトラットリアのパスタを食べない日をすごしたが、考えていてもどうにもならないのでノンナを説得しに行った。


「ドイツ人の友達もアフリカ人でも私の友達はみな歓迎してくれたわ。」

「あの アメリカ人はいやだね!」

「どうしてジョージだけ駄目なの?アメリカ人がみんな悪いわけじゃないのに」

「あのアメリカ人の上には悪霊が憑いて見えるからさ。」

「そんな、迷信で?イタリア人だって悪い人たくさんいるじゃないの!」

「ふふうん。そうかい。」

「それにトニ―もマイクもアメリカ人よ。お願い!ジョージもお店に入れて!」

「そうかい、そうだね。しょうがないね。」

「ありがとう!ノンナ。」

「でもね、あの男だけは、いけすかないのよ・」


あっさり承諾してくれたのは意外だった。ノンナの拍子抜けした答えにアメリカ人嫌いのわけを聞こうとしたのだったが、マンジャの塔から降りてくる鐘の音に問いも怒りもかき消されてしまっていた。


シエ―ナ生まれシエ―ナ育ちシエ―ナが大好きで他の世界を知らないロッセラはシエ―ナの大学を卒業して心理学の博士号を取得していた。シエ―ナにどっぷり浸かって生きてきて、34歳で教鞭をとり、「一つの文化の価値がその文化の底を流れる無意識の心理」というテーマで今も検証可能の理論の研究をし続けていた。ロッセラはシエ―ナという文化の糸を手繰りよせたり縛ったりしながら自分自身も何本かの糸を手に織る運命にあると信じていた。

三十歳も過ぎたのにロッセラは恋愛に遭遇しなかった。ロッセラは美人の部類に入っていた。やわらかな栗色の髪に細く上向いた鼻、キラキラと光る瞳は少年のように好奇心であふれて魅力的な女性だ。でも、生来の冷静さは両親がいないことにも起因しているのだろうが、メガネの奥底から、じっと見るくせが男を遠ざけているのかもしれない。ひたすら愛するシエ―ナのためにわき目もふらず、淡々とシエーナの文化研究論文を書きすすめていた。


カンポ広場とゴシック様式の大聖堂を中心に入り組んだ路地と急な坂とが入り混じって形成されているシエ―ナの旧市街。中世においてフィレンッェとの戦いに明け暮れたためにそれぞれの館が持っていた秘密の地下室はいまだに発見されていないので時々トンネルが道になっている所もある謎めいた街である。

カンポ広場のある歴史地区を取りまく城壁を出て5分ほど歩くと市民が集う広い森のような公園がある。公園の市街地に近い所に2階建ての小さな家がある。ロッセラの母が病気になって歴史地区にある四階のアパートから外に出ることが不自由になり、父親はほぼ市内と言っていい公園内に建っていたちょっとだけ古い家を買い求め便利に作り変えて親子三人で暮らした。可愛らしい家に移り三年、母親が亡くなり一年前に父親を失い精神的に不安定な状態の時があったが、昔住んでいたカンポ広場の周りの商店の人達とノンナに助けられどうにか立ち直ったところだ。カンポ広場がロッセラの子供の頃の遊び場だったのはパスタのお店と同じブロックに父親の持っている中世からの館があったからみんな家族みたいだった。父親はその館を規制にそって外見はそのままで中は近代的シックに改造し10所帯に貸していた。父親の死後ロッセラは公園内の一軒家とアパートを一人で相続した。他にアレッオ方面にぶどう畑もあったから、ロッセラは経済的にかなり豊で金持ちの部類に入るだろう。しかしたった一人で住むにはおおきすぎる家を持て余していた。冬には公園の木々がすっかり葉を落とし、寂しい風が立つ日は色彩のない生活に嫌気がさす日もあった。

けな気にもロッセラは深い過去をくぐり、夢に押しつぶされそうな不安定な現実にあってかろうじて純粋さを保って生きていた。


ジョージが一本の太いブナの樹から顔を出した時はへんな悪戯な生徒がと、ほほえましい気分がブナの木の匂いに混ざって感じられた。三ヶ月ほど前のこと、黒ずんだ中世の石塀が半分ほどのこるシエ―ナの大学の門をさえぎるように立つ大きなブナの樹の後ろに隠れてロッセラを待ち伏せしていた。

ほとんど男に声をかけられたことのなかったロッセラは少し驚いたが自分が教鞭をとっている大学の生徒であることに安堵した。


「プロフェッソレッサ(女教授)はシエ―ナ生まれですか」

「こんにちは。ここの生徒?」

「すみません!この大学に通う、ボクの名前はジョージ・マクレガンです。」

「アメリカから?」

「ボクはシエ―ナが大好きでここに住んでイタリア語を勉強しています。」

「私もシエ―ナが好きよでも、どうしてそんなこと聞くの?」

「ぼくはシエ―ナ人と親しくなりたいと思っています。」

「カンポ広場に行けば若いシエ―ナ生まれの女の子がいっぱいよ。」

「アイスクリーム 食べにいきませんか?」

「アメリカ人はそういう方法でナンパするの?」

「あれっ? イタリア人風にナンパしたつもりですけど?」

「えっ?  あら、そうなの。ナンパ?あんまりされたことないから 」

「プロフェッソレッサ!すごく可愛くて、セクシーなのに。」

「美味しいジェラテリア知っているわ。」

「ぜひぜひ!連れていってください。」


そんなありきたりの会話でナンパされたわけではないが、ジョージの瞳は青く吸い込まれそうだった。カールしたブロンドに高く細いツンとした鼻がいい男を象徴していて女の子にもてそうな面持ちだ。ロッセラには唇の薄さがすこし軽薄じみていて空虚さも感じさせたが、青い瞳に一瞬安らぎを感じてしまった。ロッセラはジョージの芝居がかった行動とたじろぐことなく真っ直ぐにこちらを見つめる目に誘惑された感を持った。


朝かと思って起きて窓を開けると太陽は空高く、雲の間からこぼれる光は庭の木々の緑に降りそそいでいた。大地の草草は夜の雫を光に奪われながら気持ちよさそうに大気の凪によってすべて静止していた。

深い夢のプリズムをどんなふうに案内されて来たのか夢のまた夢を入ったりきたりしたのだろうか。子宮の震えに押し出されるような感じで目覚めたロッセラはしばらくの間うっとりしていた。頼り切っていた父親が逝ってからはじめて熟睡できたのはジョージのおかげのような気がしていた。あらゆるものが失われてたったひとりになり大きな闇を抱えた時にすっと暗闇を求めて猫みたいに入り込んできた男がたまたまジョージだったのかもしれない。

男という生き物は悲しみを抱きしめている女とは暮らせないらしい。と心理学の本に書いてあったが、ジョ―ジは足音もなく身一つでロッセラの一軒家に自分の存在をマーキングし、さらに日常を満し始めていた。

二人の甘い暮らしは乾いていたロッセラの裡を暖かい水が波のように押し寄せて眩暈を誘発させ、何もかもを見えなくしてしまった。ジョ―ジは美しい彫刻のような面差しを向け、燃えるように輝く青い瞳でロッセラを何度も見つめた。

ロッセラは額にかかる髪の毛をかきあげてくれるジョージの指に幾度も胸躍らせた。そしてロッセラに女の肉体的快感がほほえみ、まるで夢のかけらの中にいるような非現実感は幸福なひとときを実感させた。


ぱらぱらとアルバムをめくるように一カ月の日々が過ぎて夏休みも終わる頃、ロッセラはジョージの過去をまったく知らない事に気がついた。パスポートを見ると、年齢はロッセラより10歳も若い。国籍でアメリカの住所はネバダ州とあるがその他はわからない。思えばロッセラは自分の両親の話や小さいころの思い出をたくさん語ったが彼からは両親はじめ他者の話はひとつも聞かなかった。友達の事も話には出なかったか、とにかく本人に聞くしかない。


「おとうさんとおかあさんはアメリカにいるの?」

「あたりまえじゃない。」

「なにも話してくれないから・・」

「パスポートにしるしてあるよ。」  

「兄弟とか、ご両親の職業とか、知りたいのよ。」

「どうしてそんなことが気になるのかな?」

「どんな家庭で育ったのか・・小学校の時とか?」

「何で? 普通の家庭だよ。」

「ジョージはどんな少年だったの?」

「いまのボクがここにいる。それだけでいいじゃないの?」

「環境が人を創るのよ。だから・・」

「ほかに何が欲しいの?ロッセラも家柄とか学歴を気にするの?」

「そういうことじゃなくて・・・」

「心理学者なのに、ずいぶん 偏見をもっているンだね。」

「ジョージのこと何もしらないから。」

「僕に不満があるなら、言って!」


ジョージの額にはらりと金髪がおちてきて青い瞳に怒りの炎を隠したまま震えた声で言い放ち外に出て行った。ロッセラはあぜんとしてわが耳を疑いささいな疑問から不意に訪れた不安を払うように目を閉じて枕に強く顔を押し付けた。

きっと幼年期に抑圧された何かがあったのだろう。ジョージの意識の層の下にどんな心の疑問が隠されているのだろう。もしかしたら赤ん坊の時に縛られたりして自由を奪われた事があったのだろうか。悪い想像は原因が明らかでない分膨らんでいったが、そんなジョージを自分の愛情と愛撫でやさしく包み何があってもささえようと思った。私は心理学をかなり学んだもの。

その晩、暗闇の帳が公園の森の木々をすっぽり覆って夕食の時間が過ぎても、ジョージは帰ってこなかった。

もはや自分のものとは思えないほど大きくなった耳をそばだててロッセラは眠れずにベッドのなかでうずくまって思いめぐらした。心理学者としてジョージにやってあげられることを色々考えてみた。私にはきっと出来るはずだ。

しらじらと色彩のない陽が空ける前、ジョージはヒタヒタと音をさせずに廊下に足を張り付けながら帰ってきた。

神経が薄く擦り切れそうになって眠りをよそおっているロッセラに猫と思わせる仕草でそろりとベッドに入り込み白い吐息でささやいた。

~Ti amo (アイシテルヨ)~

その一言は思い悩んで待っていた時間の長さとささくれだっていた感情をあっと言う間に乗り越えた。全神経を耳に集中させていた状態に白い吐息とともに吐かれた言葉はロッセラの体のすみずみまで届き、神経を、意思を、今晩思い患ったことを、心のなか全部を、一瞬で溶かした。

ジョージのやさしいキスの嵐が首すじを這いやわらかでしなやかな指を持つ手は乳房をゆっくりもみほぐしている。性の感覚のめざめ魂のようなもののほとばしりが快感を意識の高揚をもたらし驚くべき力を発揮してしまっていた。

~あぁ ジョージ !(なにもかも、許し、愛せる。)~

~ロッセラ!ti amo (ボク以外の誰がキミをここまで愛してやれる~

性への享楽は感覚的に逃避する瞬間でもあり、性の耽溺はほかのなにもかもをわすれさせてくれる行為にほかならなかった。


「ジョージ  ディアマンテを知っている?」

「だれ?えっ!知らないな。」

「かなりの美人よ。」

「そうなの?学生?」

「シエ―ナ生まれ、シエーナ育ちの女の子よ。あなたの好きな。」

「あなたの好きな?僕の好きな人は君だよ!」

「すごく 金持ちのお嬢さんなのよ。」

「そうなの。ディアマンテの意味は英語でダィアモンドの意味だろう?」

「てっきり 顔見知りかと思ったわ。」

「関係ない! それにしてもすごい名前だね。」

「イタリアでは金持ちに多い名前よ。私の知り合いに三人もいるわ。」

「フゥーン・・・」

ロッセラは悟られないように黙ってキッチンに移動し後ろを向いたまま空っぽの椅子の背に片方の手を持たせかけた。


昨日の四時をまわった頃、ロッセラはカンポ広場に面して建つかって住んでいたアパートの四階の部屋に行った。一軒家に住み始めてすぐに父親の知り合いに貸していたが、夫を亡くし引っ越したのだ。次の人にどれほど手をいれるべきか判断するために懐かしい部屋の鍵を開けた。まだ外は十分に明るくカンポ広場を見渡せる大きすぎる窓から身を乗り出して、観光客を眺めながら大きく息を吸ったすぐ後に、目もくらむような光景を見てしまったのだ。

ジョージがディアマンテの腰に手をまわし抱擁し接吻している一枚の像だった。

遠目ではあるがディアマンテの横顔に勝ち誇った様子が見てとれ、ジョージの紅潮した頬が興奮度を示していた。ロッセラがあっと叫んだ時、その場の情景と弱くなってきた日差しが悲痛に黄ばんでいき、やり場のない怒りが細胞の襞にのめり込んでいった。同時にロッセラの打ちひしがれた愛情はまたたくまに襤褸布同然に引き裂かれカンポ広場の底に落ちていった。


降りそうで降らないずるそうな雨がじわじわとロッセラの深層不安を掻きまわした。昨夜のセックスがすばらしく良くても不安定の原因が取り除かれたわけでなく出口のない迷路にウロウロしていた。無意識の心理的圧迫はどんな行動によって創り変えられるのだろうか脳の回路をシフトし直すことはできないのだろうか。あらゆる理屈をつけて心理学の知識を総動員して冷静に心の裡の分析を試みた。だが不安の刺戟は隠れていて自分では理解しがたい大きな力に操られる傀儡がロッセラの意としない所に住みついてしまっていた。


「雨ふらないみたいだね。 いこうよ。予定通りにさ。」

「どこへ?」

「先週約束したじゃないのさ。ドライブがてらさ。午後はきっと晴れるよ。」

「今日は ちょっと・・大学に  」

「ひどいな! ここ二三日ずっと大学で仕事じゃないか・・・」

「わかったわ。 いきましょう ・・・。 そんなに行きたいなら。」

「車で何分ぐらいかかるのかな?」


オルチヤ渓谷を遠くに臨みシエ―ナをとりまく山々は間近にせまり黒っぽい風景が静止したように見えてきた。美しいはずの自生する糸杉も張りつめていて空を突き刺す尖った部分は固まって見えた。ジョージが行きたいと催促した所はロッセラの所有するワイン畑で、トスカーナ地方アレッオとシエ―ナの中間に位置していた。信用おける代々からの管理者がなにもかもを差配しているので全部任せきりで父親が死んでからはほとんど足を運んだことがなかった。

ロッセラの気分を反映でもしているのか、あたりの風景はぼんやりとして湿気を含んだ大気が山並みを押しやって視界を閉ざしていた。


「すごい!全部ぶどう畑だ!きみのぶどう畑はどこからどこまでなの?」

「えっ? どこまで? よく知らないの。みんな任せてあるから。」

「だめだよ。自分できちんと管理しなくちゃ!」

「わたしひとりじゃ無理よ。大学もあるし、研究も・・・・」

「ぼくができるさ。ぼくに出来るなにかがきっとあるさ。」

「ワイン畑は経験がないとできないのよ。」

「オレは、何かができるはずの人間だよ!」

「父の代から差配してくれている人がいるの。」

「かまわないさ、ぼくには管理能力があるから。」

「えっ? そうなの?」

「そうだろう。きみもそう思うだろう?」

「そう・・?」

「そうさ!キミのもののこの畑、キミはボクのもの。キミのものはボクのもの。」


(ボクノモノ!)背筋が寒くなる言葉を聞いてしまった。シェクスピアもどきのくさいセリフにオイディプスの罠にはまってしまい狂ったおのれを知らされた気がした。言葉を吐く息さえもが限度を超えていた。

流れるようにうねるワイン畑に低くまばらな枝が折りかさなってこれからいっぱい実をつけようとふんばっている姿がロッセラの悲しみをみるみる重くした。

そこに疑惑と憎悪が突如として襲いかかかってきてしまった。かろうじて顔に出さず、ピサの斜塔のようにまだ自力で平静を保って立つことがせいいっぱいだ。びくびくした様子を気づかれないようにしなければならない。

渓谷の辺までワイン畑の位置を確かめにいったジョージは、はるか遠方で大きく両手を広げて白いシャツを風にのせている。富を掴もうとする邪悪な笑みを浮べでいるだろう薄い唇が見え、ささやき声まで聞こえてきた。

「ti amo ti amo 」

なんという自己中心的考え!  キミノモノハボクノモノ  ですって?

ジョージの利己的な目的を知ると彼が粗野で残酷で愚かなつまらないものとしてありのままに見えてきた。ジョージとつながっていた愛という名で呼ばれる錯覚のエゴイズム。理性では振りほどけなかったセックスの快楽は何カ月もたたずに崩壊し完全ににせものだったことに気がついた。ロッセラの裡で他者への愛情と喜びの回路が断たれ、もう人を愛することはできないとの悲しい確信が苦痛と後悔を生んでしまっていた。

ロッセラはむなしい視線をくもり空に泳がせ厚みのある灰色の雲から雫が落ちるのを待ってみた。あたりは不気味な静寂が支配して足元の石ころさえ微動だにしない。ロッセラは自分の恋愛感情をたたきのめす覚悟を決め、感覚する細胞のすみずみまでくりかえし、(別れるのだ!) 繰り返して言い聞かせた。

軽い眩暈がおこり車の中で体を横たえ目を閉じてじっとしていたロッセラを覗きこみ、どうしたの?とも気分が悪いの?の問いもなくいきなり発せられた言葉に再び吐き気がしてきた。


「どこから、どこまで、ボクタチのぶどう畑か、すごく広くてよくわからなかったけど、ほんとうにロッセラはお金持ちだね。」


ロッセラはジョージと話すことが苦痛だった。口をひらくと人格までもうばわれそうだった。家に着くとそのまま体調不良を押し通し沈黙の中でひたすら短かった記憶を消そうともがいていた。(別れるのだ!別れるのだ!)五感がすべて鋭く尖り地獄の苦闘のすえひとつの決心をした。もはや、閉じ込めることの出来ないグロテスクな答えがロッセラの邪悪な感覚を燃え上がらせていた。


「ジョージ!あなたに100年前のワインを飲ませてあげたいの。うちの畑で採れたぶどうをワインにして樽ごとあるのよ。」

「100年前のワイン?どこにあるの?この家の地下には今飲むワイン氏かな

かったよ。ほんと!すごいな 他にワインの置き場があるの?」

「ぶどう畑にも行ったから、もう ワタシタチノモノ を見せてあげるわ。」

「エッ カンポ広場に面している石造りの中世の建物も キミノモノ なの?おォ!ロッセラは大金持ちだぁ!」

「そうよ。だから地下のワインセラーもあなたのものよ。」

「スゲー!!行こう!行こう!」


一階のフロアを突き抜けた左横から地下室に下りることが出来る。地下室はそこに住む人達が使う場所で不要の家具や欠けた彫刻のドア、額縁の破損したものなどのガラクタが置いてある。真ん中にはかなりくたびれて文様不明になった絨毯が敷いてある。擦り切れた絨毯をめくるともうひとつ下に行くことのできる階段が現れる。階段といっても地下の土を掘り出して歴史から見捨てられた石をそのまま置いて階段のようにしつらえて下に行けるだけの通路である。6,7段おりると板の扉がギッと音をたてて開き朽ちた時間の臭気が二人をめがけて押し寄せてきた。中は割合と広く20メートル四方の石と石を板で渡した空間をワイナリーとして使用していた。ワイン樽が三個ほど置いてあり、瓶に詰めたワインが白い砂をかぶって積んである。ロッセラはワインを一本あけて持ってきたグラスについだ。


「これが100年前のワインよ。この樽からとったのよ。底の方に100年経過した滓があるから、100年前の匂いを嗅いでごらんなさいな。」


ジョージがうれしそうに樽の底を覗いた瞬間!ロッセラはジョージの両足を持ち上げ樽に押し込めた。ジョージの金髪が逆立ちあっけなくストーンと落ちた。すばやく蓋を閉め練習した通りに蓋の二か所に楔を木鎚で打ち込んだ。その上にかねて用意しておいた鉄板を二枚のせた。ワイングラスの縁につけた毒がきいたのか樽は少しも動かなくなった。

ロッセラの鼓動は驚くほど静かだった。そのままカンポ広場に出ると午後のまぶしい光があたりをセピア色に染めていて行き交う人々の群れが写真のように鮮明だった。


















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― 新着の感想 ―
[一言] 会話と描写が適度な間隔で混じっているほうが読みやすいと思う。
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