九月三日
今日は一日何もしない日だった。
ヒルの十二字に目が覚めて、ベッドから起きるころには一時を過ぎていた。今日は一段と気が重い。父に再試の件を伝えなくてはいけない。こんなことをうだうだと隠し立てする自分に嫌気がさすが、怒られるのも嫌だ。生まれてこの方雷やジャンプスケアが嫌いなのは昔に父親に殴られたり、急にブちぎれられたせいだと思っている。急に態度が変わるものが怖い。ドラマとかでも登場人物がいきなり他のキャラの間合いに入るような様があると文脈関係なく、殴るんじゃないかと心配になって目を背けたり、音量を下げたりしてしまう。
癖になっているほどに怒られることが嫌だ。
怒られたり、唐突に脅されないためだったらどんな不遜な嘘をつきとおすし、死んでもらうこともいとわないかもしれない。怒られるくらいだったら殺してしまおうか、逃走か闘争かの二択しか高校時代はなかった気がするけれど、大学生くらいになるとその心も落ち着いてくる。父も年老いた。今度はこっちが殴ったり虐めたりできるチカラだ。老後を見据えて娘息子には自分の面倒を見てもらいたいだろう。そんな時期だ。後二十年早くそのことに気が付いてくれていたら、私もこんな卑劣さをこじらせないで済んだかもしれないな、と思う。
自業自得という言葉を突きつける武器としたとき、今自分にもその切先が向いているようで、自分のせいなことを過去遡って罪を擦り付けるのはどうなのかとも思う。どう大仰な言い訳をしてもこれはただの再試でしかなくて、過去の清算や裁判を開くための大規模な事件ではないのだ。それでも、注射の針が肌を貫通する様を想像するだけでぞくりとはしてしまうものだから、それに耐えるために、新しく、速く、物事を進めるために自分の心に整理をつけるために日記を書いている。
そう。最初に日記をつけ始めたのもそういう心機一転の清々しい日々の記録を共有したという気持ちではなく、自分の中の矛盾や自己嫌悪をほどいてあげるセラピーの一環だっただろう。だから、夏休みという悩みのない日々でこれを行うことは必要ではなかったのだ。
しかし、再試というのは嫌なものだ。自分の努力を否定されたようにも思うし、それを超えて自分の甘さに嫌気がさしてくる。他の同じテストを受けた人間が自分よりも頭がいいという事実に、いつか追いつけなくなってしまうのではないかという不安もある。私のことを気にかけてくれている者達は総じて頼りがいがあって、いい奴らで、根本的に違う気がするのだ。いや、元々自分と人は違うのだが、しかし、そういう意味ではなく、例えばサークルにいる人間はそういったテストを共にした人々よりも数段心が通うのだ。そういうところで私の所属している学部というのはつくづく私のためにはないのではないかと思う。そもそもこれもまた自分の決断ではないのだから、決断しなかったという自業をまた自分で拾っているだけでしかない。何もしないことも周り廻って周りが何もしないことにつながるんだろう。いや、周りはしてくれている。そのうえでダメなのだ。無力、無努力、無才、アイデンティティが崩壊しそうだ。それを真正面から受け止めないといけないのだ。追いつければ今肯定できない自分を肯定できるだろう。そのための努力をしないといけない。周りは助けてくれるが、しかし、真に私を慮るのは私だけでしかない。家族や友人は結局、私を助けることで自分にも利益があるからそうしているだけだ。私はそうではない。私は純然と私のことを思い続けている。家族は私が金さえ稼げればそれでいいと思っている。私のしたいことなんてしなくていい。金を稼げないことは無価値だと思っている。本当にそれでいいのだろう。仮にそうなったとて私はそれを還そうとは一切思わないが。無論、それが義理だったり道理だったりすると人々はいうんだろうが、私は金を稼ぐだけなのだ。それさえできれば彼らにとっては望むべくもないだろう。金を稼いでほしいだけで、情緒や優しさ、遠慮を持って分け前を与えるような人格者になってほしいとは願わなかったのだから。
私には私だけしかいないのに、世界は私に世界に奉仕するように向けてくる。ならば私は滅私奉公しようではないか。私のために。私は私のために世間に貢献する。私がその条件の中で楽をするために。
あぁ、今こねくり回している理屈も何の役にも立たない。まずは勉強しなくてはいけないのだ。自分の人生が屁理屈と神の上にペンをこねくり回すだけの簡単な理屈で成り立っていたらどれほど楽だったろうと涙を呑む。無論、そんな感傷的ではないし、悲しみが苛つきや怒り、嫉妬に勝ったことはない。隣の芝を見て青いと思って泣くやつはいないのだ。嫉妬と理不尽な怒りが私に武道がとれないことの、その武道の甘さの未熟たるやを教えてくれる。
こんなページ見返し対比が来るのだろうか。いずれこの日のことを思い出す日が来たとして、それがこんなことばかりだったら悲しいほかあるまい。なんとも救いなく。せめて、救いを与えるために今日は明日の為の準備をしよう。それが僅かにでも未来の時分への慰めになるのだったら、私は純然たる私の信奉者で、使徒で、ホテルマンだ。




