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大学生日記  作者: 江戸銀(エディ)
退寮後編
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七月十一日


 これを書いているのは七月十日の真夜中である。時刻は三時である。

 ここ最近はこの時間に寝ることが多く朝起きれないのが憂鬱である。

 私は昔の習慣を取り戻したいと思うときがままある、それはこのように夜更かしをして小説を書くこともその一つだろう。かつてはこの物書きということに打ち込めていた気がする。今は全く違うことに振り回されている。若い間の休みの時間を有意義に過ごすことに焦燥し、奔走している。なぜならば、ものを書くのはいつでもできる解放された行為だから。それゆえに今は今にしかできないことをしようと躍起になっている。死ぬ間際に見る走馬灯に少しでも色のついた思い出を添えようとしている。パソコンのキーボードを弾き続けるだけの簡素な時間ではなく。


 この間はロンドンとパリに行った。その時の話を今旅行記として描きかけている途中である。いつか全てを書き切りたいが写真だけでも六百枚以上ある思い出を選定しつつ、微に入り才を穿つように書くと夏が暮れてしまいそうだ。この旅行記はいずれ大学の文芸部の冊子か、知り合いの文芸部員がやる文フリとかいうイベントに寄稿するか迷っている。私の青春は旅歩き、人と話すだけでもない。ロンドンは人あたりが悪くて、空気が陰気だったが、丁度天皇陛下がイギリス王と邂逅なさるタイミングだったので、日本の国旗とイギリス国旗が剣を交えるように街道に何本もクロスしていたのが印象的でよかった。相対的にパリは人が朗らかで日も暮れることを知らず、町自体が天井のない美術館であるかのようだった。こういった思い出は一生のものとなるだろう。きっと死ぬ間際に思い出すに違いない。


 昔の闇は消えてなくなったかもしれない。私も成長した。私が書く事柄は昔より明るく、せめて木漏れ日のような作品が書けたらいいなと思う。日記はその一歩であるかもしれない。この日記を私は精神的な変容の記録として実験的に書いてきたかもしれないが、今は書きたいことがあるから書けるようになった。自己の歪みに着目するまでもなく、世界との触れ合いを書けるまでになった。私は私の足で世界を渡ることができる。どこまでも歩いて行ける。でも悲しいかな。私にはワトソン役がいない。ホームズに対するワトソンのように私のくだらない思い出を共有できる自分の半身のような友人が欲しかった。ワトソンがいればどんな細かな幸せだろうと私は丁重に記録して置けそうだ。でもしかし、最近になって思うのは私は人に対して試し行動的に悪態を吐いてしまうことがある。そのせいで相棒を欲する半面、他者を拒む部分も自分には存在するのだなと感じた。相棒という距離は無理かもしれない。民衆とか、群衆とか、その一部であるならばまた別か。


 これを書いているのは夜である。昼はバイトをしていて、いつも通りのパンフレット配架。久々にパートナーとなる仕事仲間が来た。元々働いている場所の別の部署でインフォスタッフをされていた方がどういうわけか新しく、私たち、パンフレット配架の方に来てくださった。にぎやかなのは良いことだが、自由裁量が減る部分では他の方は嫌がることもあるらしい。私は基本的に好き嫌いがない。何事にもメリットとデメリットがある。そして、大抵のデメリットは目を瞑れるのだ。金銭的損失でもない限りは。自由裁量というか、単独で仕事をするときはそれは多少の自堕落さも己しか監視していないのだから容認できる。しかし、二人になると互いの目を気にし合って落ち着かないということなのだろう。私は一人の時もある程度、人様に見せる時と同じような態度をしている。きっといもしない他者の可能性を考慮しているのかもしれない。そういうのは統合失調症の症状の一つではなかったか。私にその気の重傷さがないことを祈る。しかし、今日の人とはどうもリズムが合わなかった。二人ともお互いにリズムを合わせようとするために軸がぶれ続け、互いの波がぶつかって打ち消し合ってしまうようなアップセットがあった。相手が客体的に接してきた場合、私も他者優位に接するのではなく、自分軸を作って相手をそこに寄せた方がおそらく良かったのかもしれない。人のやさしさの扱い方を未だに会得していない。人は私に優しくされて、馬鹿正直に嬉しがっていればいいのだ。その動機不明な優しさをただのお人よしだと思ってくれ差えばいいのだ。変に裏があるのではないかと勘繰られるよりそっちの方が性分に合う。


 バイトの話はこのくらいにする。

 読書の話をしよう。最近は阿津川辰海先生の館シリーズを読んでいる。ミステリーではもはや定番のジャンルである館もの。現在出ている紅蓮館の殺人、蒼海館の殺人、黄土館の殺人、それを読み終えようとしている。最初に黄土館を読んだときこれが単発の推理小説ではなく、シリーズものなのだと、しかも最新刊であるのだと、知り個人的に主人公とそのバディがどうしてこのような話をするのかと気になったために一作目の紅蓮館を読んで、今は蒼海館を読んでいる。探偵小説というのは私にとって重要かつ愉快な要素がふんだんに入っている。一つは先に述べたような主人公に対するワトソン役がいることである。バディというのは親友の友情以上の絆があり、それが二人の間を埋めている。私にとっては喉から手が出るほど欲しいもので、永遠の憧れ、氷海に揺蕩う心を溶かす太陽の幻影のようなのだ。そんな二人が互いを思いながらも館という大いなる謎と殺人の謎に挑んでいく。自らもまたその罠に掛けられるかもしれないと怯えながら。しかし、恐怖があっても相棒がいれば乗り越えられる。孤独がどれほど大きく、世界があまりに強大であっても、一蓮托生であれば立ち向かえる、そんな希望が私には眩しく、羨ましく、妬ましく、憧れなのだ。第二に死の救済である。現実ではほとんどの人々は偉人のように死をもてはやされることが無ければ、世界にその生の実績が刻まれることも無く、無かったことになるように押し出されていく。大量の死によって覆い隠された個人性、火葬され骨になり、墓場では無個性な石碑の一本としてしか存在できない。個性をはく奪された死。しかし、探偵小説における死はトリックが弄され、それを探偵によって解明される。装飾と解明、二つの点によって被害者たちは彩られ、注目を浴びる。探偵小説の中で殺され事件となることで人々は個性を得ることができる。羨ましいとは思えないかもしれないが、何者かになりたいと不安と鬱屈を抱えるよりかはマシに思えるのだ。


 作品を読んでいる話から飛躍しすぎたし、後半は露悪的過ぎた。失敬。

 いやただ魅力としてはやはり単に上記二つの理由に留まらないように思える。私がミステリーが好きで、バディに執着があるからこのシリーズを読んでいるわけじゃない。きっとその要素以外のストーリーの部分が面白いのだ。主人公たちは高校生から始まり、シリーズを通して年を重ねていき、大学生になる。常に成長しているのだ。その成長すらも私にとってはうらやましいことなのだろうか。嫉妬ではない一般的な魅力であることを願う。


 








 

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