十二月十三日
今日も何もない一日だった。
夜眠れずに朝の七時まで起き、日が出るタイミングで五時間の仮眠を取って十二時に本当に起床した。人としての崩壊を感じるが、この崩壊は危機感はなく、老人が死について漠然と恐怖鳴く受け入れるような感覚に似ているような気がした。私は別に老体を経験したわけではないから本当にそうかは分からないが、私の想像上の老人人生は死を恐れずに空に割れていくシャボン玉のようにあっさりとした末路であった。
本当は授業があったが、今日はさぼってしまった。
ズームでの授業だったし、録画もされているというから別段焦りを感じなかったのかもしれない。
でもさぼった代わりに何をするわけでもなかった。
永遠の命を与えられて世界に飽きた人のような一日を過ごした。雲でも流れていれば時の速さを憂うこともできたのに、その日はどうも私は永遠的で空に雲は揺蕩うことも無かった。
無限に広がる青色。
色ですらない。辺がない漠然とした概念がぼんやりと横たわっていたのだ。
私もそのようであった。
今日もゲームをして漠然と生きる。
社会は漠然と生きることを肯定する。そんなものでも機械の次には役に立つと舌をちらつかされている。いずれ労働力としてGDPのメーターの厚みになるだろうと期待なき期待に押しつぶされ、圧搾され、私は既得権益の甘いワインとなる。
そうはならないぞと反旗を翻せばニート。
そうはさせないぞと拳を振るえば犯罪者だ。
ここはおとなしく勉学に励み、この律の内側で絞られる者なりの運命を甘受するべきだろう。
だが、腐れ病に侵されているわけではないにしろこの殻を割ってみたところで中には何も入っていない。少子化が進むとともに若者の脳みそもまた萎縮が進み、湯だったカエルの脳のように意欲なく、ただ自意識なく怠惰を貪る。
そうあってはならないことを、憎たらしい社会を人を呪うためにそうあれと願えば、まず自分を呪うことになる。だが、二つ孔であれば我が身を賭して他者を引きずり落とす。
意欲がない。
希望がない。
絶望もしない。
そんな世界で自分なら、せめて他者も同じように退屈で鬱々とした日々を過ごしてくれていればいいのにと思う。他者を呪うことでしか自己の人生を肯定することが出来ない。生きながらにして怨霊となってしまった。
どうか私の首を捥いで、埋めてくれ。




