十二月九日
今日は土曜日、麻布台ヒルズで配架スタッフのバイト(時給1800円)
パンフレットを補充するだけの簡単なお仕事だが、場所が場所だけにディズニーの時より少し減るがお客さんと接する機会もあるのがいい。不満があるとすれば制服が地味なところか。
ヒルズの中はとてつもなく広く、台車で行けるルートも限られている。
そして建物の名前と行くべき階数、必要な物品の数などを把握し、整理する能力が問われるので頭を使って優先順位をつける練習にもなる。学びのある仕事だと思う。大学の教授先生は学びのある仕事をしろ、と申された。英語を使う仕事や塾講師など勉強に関わる仕事をやり玉に挙げていた。しかし、これは少し違って仕事の中にいかに興味と学びを見つけられるかが重要なのではないかと思う。
しかしながら、今回がバイト二回目なわけで勝手も都合も分からず、前に待機していた場所で待っていればいいのか、それともインフォメーションで鍵を受け取ればいいのか、と到着してから悩んだものであった。それから特に誰もいないのを確認し、意を決してインフォメーションカウンターの人に配架アルバイトだということを伝えてやっとのこさ鍵を貰うことが出来た。
それで数分遅れてしまったことを謎のおじさんに怒られたのが腹立たしかった。詳細な待ち合わせや指示もなく、適当なメールを打ってくるくせにただ年を喰っただけの閑古鳥が何様のつもりなのか。倉庫でひたすらパソコンをいじっているのを見るに忙しいか居場所がないらしかった。
言い始めれば止まらぬことだが、元来おじさんというのはいけ好かない。昭和初期頃の戦争を肌で感じていたおじいさんならまだしも、何の取柄もない円周率を3で習って後は蝶よ花よと園芸委員のような学校に育ててもらっていた子供がそっくりそのまま成長せずに老け込んでいるだけなのだ。成長じゃない。老けているだけだ。老いて背骨が曲がり、あちこちがきしみだす。足元を見れば間違いでもなんでもなく棺桶に突っ込まれてる。それでいて見ていて助けたいと思うような容姿をしていることも少ない。この世で最も孤立している存在、それがおじさんだ。これを読んでいる3~40代の人には悪いが、おじさんはかくあれかしと神は願われた。砕ける律は黄金律だけ。おじさんの悲しき定めはどれほどの言葉をもってしても取り繕えない隠しがたい残酷な真実なのだ。
一休み。
……しかしまぁ、遅刻してきたのはこっちに非がある。けれども、無性に腹が立った。何故もなく人は非を代価なしに認められず、婉曲的に飲み込むしかないのだ。常識的に考えれば非のあるやつ、悪い奴が折れればいいのだろうが、しかしそれは合理ではない。社会的であっても悪い奴が素直に悪さを認めることはない。悪い奴は悪いと思って悪さをするわけではないのだから。つまりこの場合は愚か者が行動指針を批判され、それに反発している状態だろう。一理あるとは分かっていても完全に賛同しきれない。賛同しきれるのであれば、すでにそうしているからだ。非を認めるのもしゃく、認めたところで一銭の徳にもならなんだ。
表向きには素直に謝れてもこうやってぐちぐち考えてしまうのは私の性分なのだろうか。一生こういう思考回路を連れ添っていくのか。生きづらい人間で我ながら可哀そうである。
でなければ小説なんて書きもしないところだ。ここが私の逃げ場なのだろう。逃げ場というと癪だが。もっと言い方があると思うが、今は思いつかないので保留とする。
バイトはそれ以外は滞りなくであった。内容は簡単なことであったが、実は同じバイトで働いている女性と時給が違ったことが発覚し、なんとか誤魔化すという事件もあった。
せこい会社である。おんなじ給料で雇わずにいるとは。エコノミクスの授業では、人件費は平等に一定に設定されており、誰かを昇給させればまた同じ立場の労働者の賃金も上げなければならない。それゆえにレイバーコストを少し上げるだけでマージナルレイバーコストは格段に上がってしまうという。しかし、現実は授業通りとはいかず、会社は依怙贔屓を隠れてしているものらしい。みんな同じ給料でやらせればいいのに、そういうことをするから不信感が募るのだ。ここはやはりディズニーの方が空気が爽やかというか、信頼感に溢れていた。
だが、そもそもなぜ私の賃金が高いのかを話すと長くなりそうだから「忖度」と便利な二文字で片付けようと思う。
バイト終わりに四階の本屋に立ち寄った。今日は家に本を忘れてきていたので、電車で読むを代わりに擁立しようかを思っていたのだが、これが中々決まらない。腹が減っては食指も動かず中を十周くらいした。何か興味のあるものを見つけられるかと思ったが、何もない。出会いを確信した時頭の中で炭酸が弾けるような刺激を受けるが、今夜は何も弾けることはなかった。どれもが静寂の海のように凪いだもので、私を水底まで連れ去ってくれそうな怒涛の書物はなかった。
腹が減っては動く足腰も動かない。が、私は何か本の虫の怨霊に出も取りつかれたように決まらない決まらないと頭の中で嘆きながら、バイトで酷使した肉体に鞭を打って運命の一冊を探し回った。美術、建築、静物、落語、それから経済なんかの新書コーナーも分け入ってみたが、どれもこれもパッとしない。山の中で松茸をさがしてるのにどれも食べられない雑草しか見つけられなかったような気分だ。
途中で小説コーナーにもよった。小説よりかは知識をくれそうな本の方がその時はこの身だったのだが、別になかったから苦肉の策で探した。勿論結論から言えばなかったのだが、数か月前に読んだ「パライソのどん底」の作者が書いている「とらすの子」と「食べると死ぬ花」を見つけた。「パライソのどん底」はそれなりに面白い小説だったし、記憶に新しい本だったのでよく目を惹いた。しかし、思い返してみれば池袋のジュンク堂でぱっと一ページ目を試し読みした時に目に入ってきた最初の一行目で、性描写がなされていて腹を殴られたような衝撃を浴びたのを今でも覚えていた。そんな衝撃は物理的に与えられていないのに、「パライソのどん底」の出会いを思い返すと最初に性描写への不快感、しかし引き付けられるどうしようもない引力の衝撃が続いたのを生な感触として思い返せる。
考えてみれば私はこれまで読んできた全ての本をどこで買ったのか、出会ったのか、そしてどこで読み続けたのかを覚えているような気がする。それは蒸し暑い夏のこと。それは大学が再び始まりだした秋のこと。それは自分を呪った翌日のこと。東京駅に行った日のこと。場所や気温、匂いや質感。最初の衝撃。決め手は何だったか。気に入った小説っていうのはじゃけ外であったとしても何が嵌って手に取ったかを覚えているものだ。それでいうなら「パライソのどん底」はあれほど車に構えて読んでいたくせに私は私の記憶の本棚に入れ続けている。それが答えだ。
金を稼ぐのは本を読むため。
本を読む空間を広げるため。
本は啓いてくれる。
光れ、脳細胞。
灰色に瞬け。




