十二月六日 ふれあいカフェ
今日は友達と一緒にお台場にあるふれあいカフェ(?)に行った。
犬や猫、ウサギやモルモット、果てはイグアナなんかと触れ合ったり写真を撮ったりできるという中々人生の中で体験したことがない場所だった。
場所がどこかは忘れてしまったが、六階にあるカフェだったのは覚えている。
十二時に約束し少し遅れて到着した俺は先にレストランを見つけていた奴らと合流した。
そこもまたふれあいカフェの近くにある場所でハンバーグをメインにしているレストランだった。通された部屋が個室のような場所でお台場の海と絶景を一望できるいい席だった。惜しむらくは窓ガラスが汚くて、その良さが半減していたところか。
しかし、今回集まった友人というのが中学の同級生だったもので中々久々に会うメンツであった。昔の、子供の頃から一気に大学生の頃にイメージがジャンプするとそのギャップに驚き、緊張することもあるかもしれないが、人一倍取り繕うのと人一倍人に無関心な私はさほど気にはならなかった。一人はとてもお洒落で耳にイヤーカフなんかませたおしゃれアイテムを付けているものだから、俺ももうすこし派手なお洒落をしてみようかと思うときもあった。
とりあえず久々の再会だ。四人で集まるのは久々だ。
集まる口実が俺がバイトをやめた「お祝い」というのも旧知の中らしい口実だと思う。
おすすめされるがままに王道のハンバーグプレートにソースはガーリックで頼み、しばし歓談したのを覚えている。内容までは明瞭に覚えているわけじゃないが、俺が新しいバイト先の話をしてそこに更に別の中学時代の友人と一緒に働いているということを伝えたら、そいつを含めた新しいグループで今度映画でも行かないかという話になったのは覚えている。
それから色々とゲームの話だったり、直近の旅行話だったり、私が二十歳になってお酒を飲めるようになったという話なんかをした。
そんな話をしながら食べたハンバーグプレートはぺろりと普段小食な俺の胃にもするりと入っていった。最高の仲間たちとの歓談は食事にピッタリのスパイスだということが証明された。なるほどこれは管理栄養士も孤食を憂うわけだという具合。
ハンバーグ屋を後にして俺たちはその近くにあるふれあいカフェに直行した。
平日はなんと二千円とちょっとで終日犬猫と触れ合うことが出来るというのだからなんと素晴らしいことだ。最初こそ強気な価格設定に怯えていたが、最終的に二時間ちょっといたことを考慮すれば全然にお安いところだった。ついでに中で犬猫の餌を買ったのを合わせれば、もう少し行くが休日の出費というのは痛くない。これほどいい経験には一万円払ったって笑顔でいられる。顧みて日常の損得勘定が相対的な不幸に根差しているのかと思うと憂わないことも無いが。
背中で猫がキャットウォークしてくれたり、でかいシベリアンハスキーやセントバーナードがストークしている姿を見るだけで癒された。小型犬たちは慣れると私たちの膝の上で寝てくれるというから可愛いことこの上ない。
癒し。癒し。
長く忘れていたこの感覚に千年の孤独も柔らかな毛並みの熱に浮かされるというもの。
直近で見た「癒し」が祈祷「火の癒し」だけだったから、もふもふのこれこそ真の癒しであるというのを感じてしまっては何か俺は取り返しのつかないことになってしまうような予感がした。いい意味で。
そのほかにもモルモットに餌やりをしたり、でかいインコにずっとこんにちはと声をかけたり掛けられたり、イグアナとツーショットを撮ってもらったりした。
人生に閉塞感を感じているやつらは全員ふれあいカフェに行くか、無責任な発言になりかねないがペットを飼うことを推奨したい。命が近くにあるというだけで力が湧いてくる。鬱になっている人間は子作りにでも励むべきだ。
ふれあいカフェの中だけで百枚の写真と三分強の動画を取ってしまったのではないか。
惜しくないことだ。
ふれあいカフェを出た後は階下の屋内レトロ通りに行ってみた。
中々これが昭和感の漂う駄菓子屋と胡散臭いトレカ・フィギュアショップの集まりだったので、昭和のインモラル感を味わえる場所だった。明らかにぼったくりのポケカの新弾ボックスやグレーなオリカガチャガチャ、死ぬほど弱いアームのクレーンゲームなどなど、社会に美味い話はないんだよ、と子供たちに教えてくれるホビーショップの闇を豪華絢爛に見せつけてくれたものだ。
友人の一人が三百円で遊戯王のパックが二パックでてくるという一見お得そうなガチャガチャをやるということで俺も一回やってみた。何も期待してないが、こういうのはこういう空気感にこそ値千金の価値があるのだ。パックには何も期待していなかったから特にキラキラな凄そうなカードは出なかったが、友人はトゥウェンティースシークレットレアとかいう名前がごつごつした凄そうなカードを引き当てていた。中々の豪運にその他の友人たちもあやかろうとしていたが、惨敗している死屍累々が転がった。俺は引き際を知っているからやらんかったがそれはそれでツマラナイ男であったと思う。
その後は友人の内の一人がバイトの予定があるということで離脱し、我々は三銃士となって夕食を探すたびに出たのだった。最初は一人が寿司が良いということで寿司を食べに出かけることにした。そのついでに俺たちは与太話でポケカのボックスを買ってみたいという話をしたので、トイザらスを目指した。
まぁ結論を言えばなかったわけだが。
おのれ転売ヤー、ということなのだろうか?
そして趣旨から脱線し我々はいつの間にか寿司からイタリアンを食べることになっていた。
なんて奇妙な遷移だろうか。しかし、自意識のない大学生集団にはこの程度の揺らぎは当たり前のことであった。観測されてもぶれるその姿は新型の素粒子か光の性質を伴う。
そんなわけで入ったイタリアンレストランは人こそ少ないがお洒落な雰囲気で日暮れのお台場を股一望できる場所であった。お台場というのはどこを切り取っても絵になるのにどうしてこうも寂れた感じがあるのだろうと思ったら、今日は平日だったのだ。きっと休日は学生たちに溢れかえり池袋も新宿も渋谷事変にも勝らぬとも劣らぬ享楽に彩られるだろうと思った。
そこでカルボナーラと牛肉のサラダ、クリと四種のチーズピザ、洋梨のワインを頼んだ。
これがまぁ三千円くらいだったが価格設定も丁度いいくらいじゃないだろうか。なによりこの前バイト帰りにハイテンションで一人でカフェで食べた時は四千五百円ぐらい使ったからな。
俺と一人は折半でおんなじメニューを食べ、もう一人は小食だからパスタをレギュラーで食べていた。
まぁ、この小食男が食べ終わった後に「早く店出ようよ~」だの「飽きた」だの子供じみたことを言っていたことがannoyingであった。中学生のときからいくらか見た目が変わろうが中身はそうそう変わらないというのが少し分かって苛立ちの中にほくそ笑みが出た。自分が最もよくわかっていることが他者に認められた気分でもあったのだろうか。そのような未成長を認められたというよりかは他者に証明されたというべきか。人の成長のいびつさと遅れに安心してしまうのは性格が悪いが、足並みがそろっていることを確認できるのは所属欲求の一端を育むのに有効なプロセスだろう。
まぁ、どれだけ言葉を弄そうとウザかった感じはぬぐえないが、それでももう一人が諸ともせず酔っ払いを扱うようにしていたのが面白かった。あれくらい鈍いというか気にしない精神性に憧れる。それでいて創造性と行動力があるから今日のように楽しいことを企画できるのだろう。彼には少しばかりながら敬意を払う。
サーブされた料理はどれも美味しかったが、洋梨のワインというのは飲酒初陣の私がジュースのように飲むべきではないというのはなんとなく分かる味だった。味というか、感触だろうか。一気に飲むとタワテラに乗った後のように頭がふわふわしたのを覚えている。ジュースのようでもお酒であることを忘れてはならないということだと予期した。
まぁ談笑があり、その時は何を話したか忘れてしまったけれど、何か面白い話をしてやってくれと文句たれの小僧をあやすために言ったのを覚えている。もう一人が頑張ってひねり出していたが失笑がいいところの話をしていたのも印象的だった。印象のようにボケるような話だった。
良い一日だった。
今日ほどの日は一年の半分を下回る。それ以外は普通な日か、調子が悪い日だ。
そんな日々も愛おしいがやはり心のそこからリラックスできる仲間内で心の底から笑うのが面白い。どれほど気が合わなくなっても腐れ縁というのはある。あらゆるものが成長という言葉を伴って風化し、熟し、腐り果てていく中で腐れ縁だけが俺たちを繋ぎとめてくれる。
黄金よりも腐食しない強固で奇妙な縁で。
文中内の「ストーク」の意味が不明瞭という感想が来たので、明瞭にしておくと「ついて回る」とか「ストーキングする」とかの意味で使っていると思います。実際に英語でそんな単語があるかは分かりませんが、流れるままに打っていたら出た単語なので私の中にあった言葉の一つのようです。




