十一月四日 劇と文化祭準備日
これまでのあらすじ。
大学二年生に上がって、実はディズニーでバイトしていたのでした。
三月ごろからやっていたのにどうしてか日記にそびれていたので、今ここに記しておく。
なぜいまになって思い出したかというとそろそろ辞めるからなのであった。
良い旅を。
今日は高校の時の友人がどうやら舞台をやるそうで、急遽行くことにした。三千五百円の観覧代は高いけど、疎遠になってしまっていた高校の時の旧友が久々に電話までかけてきてくれたのが嬉しかった。すぐさま二つ返事で行くと伝え、他の高校時代の友人たちに連絡を取って「一緒に行かないか?」と聞いて回った。
結果、今日集まってくれたのは私ともう一人だけだったわけだが。
やはり大学生とはいえ、3500円という値段設定は高かったわけだ。
某Fは貧乏だから仕方あるまい。今回入った舞台の半分ほどしかない2畳程度の部屋に住んでる貧乏人だ、仕方あるまい。
そう。
舞台とはいえ、アプリコホールではなかった。
四畳半神話大系よりも少し広い部屋に通され、部屋の広さを最大限生かすために舞台と観客船を角と角の対角線に配置して、ようやく役者が演技できるようにしている創意工夫のある舞台だった。
立地も地下で最初は分かりづらかった。
けれども、舞台は貧相ではなかった。某裏切り者のfのようではなく。
創意工夫をしてまでも「やりたい、やらねばならない」という熱意に溢れた劇はあの狭い空間をアプリコホールに変えてしまうほどのパワーがあった。
“五色ロケット鉛筆”は五人の人間――漫画家、そのアシスタント、夢を失った男、舞台を目指す女、自分を見失ってしまう女――の人間関係にスポットライトを当て、才能のある者、ない者、そしてそれを支える者の三立場それぞれの悩みを刻銘に描き出していた。
才能のある者、ない者、支える者の役割は五人それぞれの固有のものではなく変動していくものだった。例えば、漫画家は自分を見失ってしまう女や夢を失った男からしてみれば才能のある者に分類されるが、アシスタントによって支えられる者だった。
人はじゃんけんのように立場が変わる。或いはポケモンのタイプのように。複雑さで当てはめるならポケモンのタイプの方がいいか。
草は炎に弱いけど、地面タイプには強い。人によって強い弱いは決まってくるし、相性の良し悪しもまた準じる。そういう人間関係を描いているのが凄いよかった。
ストーリーの話もそうだけれども、あの観客との近さで緊張せず、更には声も張っているのは良かった。三千五百円払ってよかったと思わせるだけの魅力があった。
劇団四季とは違うけれども、それより近いし、予算だってかけ離れているのだろうけど、彼ら彼女らの熱意は青春にしかない煌めきを宿していた。だからそこに引き寄せられた。
まぁしかし、終わった後のチェキは買わなかったけれど(1000円)
さてその足で三時からは文化祭の準備に向かった。
私は文芸部と散歩部に参加しているのだが、土日にディズニーのバイトがあったので(伏線回収)行くことが出来ていなかった。だから実際に顔を合わせたのは三回くらいしかなかったのだが、それでもディズニーで鍛えたコミュニケーション能力と持ち前の上辺だけの取り繕いでまるで最初からいたメンバーのように振る舞って、円滑にかつ円満に話していた。
さて。あんまり行く機会がないのは分かり切っていたのでサークルでは偽名を使っていたのだが(なんなら学年さえも偽っていたのだが)とうとう同じ学部の一年生に見つかってしまい、「あれ、君うちの学部にいないよね?」と言われてしまった。
私たちの学部は新設学部でしかも人数が少ないせいで、学部生全員を把握するのはたやすいことなのだ。加えて授業も大学の方で決められているせいで他学部よりも同じ学部の人間としか出会うことがないのも拍車をかけてしまっている。
誤算ではあったが、まぁ最初から想定していたことだし、ようやく偽名をやめて本名で話した。
まぁ今でも偽名で呼んでもらっているけれど。
たまに自分が自分じゃなければ良いな、と思うときがあって、自分じゃない存在の考えや性格を理解したいと自己中心的に思うことがあるのだけれど、偽名は別人の名で呼ばれることで自分の中に自分じゃない自分を定義して他者を内在する自分になりたかったのだ。
実験するには回数が少なくて、まだ偽名の方が体に馴染んでいなかったから効果が薄かったかもしれない。それに多少の違和感も偽名実験で得られたのか、サークルという特別な空間で耕されたものなのかは判別がつかなかったので、ここの実験は失敗である。
副次的なものだし、別に面白ければ何でもよかったわけではあるが。
文化祭の準備はどうやら午前の方で殆ど終わってしまっていたみたいで、殆どやることはなかったが、文芸部というだけあって本には事欠かなかった。
やっぱり素人の書く小説で、自分の身の回りのことをテーマにしているやつは良いと思う。
だって今の現状に満足していないけれども、それは環境のせいであって、自分の性格はこんなにもアクティブですよ! と喧伝したくてたまらない歪んで醜く弱い精神性が露骨にあるからだ。何かに憑けて実生活の他者に対して心の中で強気に思っていることを小説の中でしか語れないのだから、そこにしかない腐敗というか、思考の煮凝りというのはある意味正常な小説からは得られないエネルギーだ。こういうモノを参考にしよう! と思える作品がある一方で、そういう反面教師的な作品を自分が乗り越えた場所だとして、見下すのは中々にあくどい趣味で、まだまだ自分の稚拙さがあるな、と再確認できる。
しかして稚拙なことと無知なことはいい。多少頭がいいというのが一番始末に悪い。言葉尻を捉えて訂正したくなる本能を抑えきれずになんでもかんでも知ったばかりの知識を露呈する馬鹿は賛同を得られずに流されるだけ。誰もが一度は通っているから少しは頷いたり、後ろめたくなったりするんじゃないか? ならないやつは達観しているか、未だ思春期が過ぎていないかだ。
稚拙さの中にある感覚の鋭敏さ、無知の中にある自分に対する自信。
どんなクソ不味い料理でも自信満々に出されれば人は食べてしまう。
まずい、とは言わず、「粗削りだが才能がある」と思い込ませることが出来る。自分が通過し、失ってしまったものだからこそそれを人は「才能」だと思うほかない。なぜなら自分の黄金期はどんな人間も馬鹿をやっていた時期なのだから。それを否定できるのはよっぽど自己肯定感が高い人間だけだ。
あぁ、創造性がなく、周囲の顔色をうかがって無個性になっていく人間よりも、恥ずかしいと思われるべきことを平然とやる人間の方がまだ生きていて楽しいだろう。
生きる喜びとは金を稼ぐことではなく、いかに自分を恥じず自分がすべき行動をすることが出来るかだと思う。その点では金を稼ぐために大学に入ってしまった時点で私は生きる喜びとは決別したものだと思っていた。けれども、こうしてまたサークル活動を通してだったり、過去の縁に縋ってバカみたいなことが出来たことに感謝している。
馬鹿は馬鹿らしくあれ。
馬鹿が天才のフリしたってしょうがないじゃないか。




