七月二十六日及び二十七日
二十六日からは北海道のとある場所に「留学」することになった。
朝五時半に出発して、飛行機の中で本を読みつつ目的地のことについて思いを馳せていた。
夏休みを利用して英語学習をするために外国人が英語を教える宿に行くことになった。北海道の羊蹄山の方。子供の頃、風景に溶け込みながらその巨大さで圧倒感を出していたそれを今再び見るのか。
眼下に広がる世界は全てミニチュアと化していく。海の上を飛び、多くの輸送船が虫のように海を走っていることを知った。いつも変わり映えのしない自分の部屋で動画や本ばかり見ていたから、こんなに非日常的な風景を見れることに気づかされ、今更ながら飛行機の窓の素晴らしさを確認させられた。
小さく見える世界。だけど、高いところからだと雲もないから、太陽の光が強くて目が痛くなった。光が網膜に焼き付いて数分は本を読むのも難しかった。綺麗な景色だがあまり長く眺めてられるものではない。
飛行機の中では『宇宙・0・無限大』と鈴木敏夫の『歳月』を半分まで読んだ。
千歳からは叔父の車で案内してもらうことになる。北海道は大きいから三時間もかかる。
今思うと叔父には申し訳なさが立ってこないでもない。朝の八時ごろに千歳に行って、そこから三時間かけて私を送り届け、また三時間かけて家に戻る。この一日の六時間を拘束されてしまったこと、それは私だったらば耐えられないから、叔父は愛に溢れた人だったというほかない。
目的地の前に支笏湖と曇天にその頂上を隠した羊蹄山を見て、途中でラーメンを食べた。別荘持ちだったり旅行で来るであろう外国人用に整えられたラーメンの味は私たちがいつも食べているラーメンとは違って、まずかった。日本人のラーメンじゃない。味とトッピングが濃い。なぜゆずを入れて、醤油があんなにも濃いんだ? 濃すぎて少し酸っぱくすらあったような気がした。私と叔父は『ラーメン』を感じながら、一言も美味しいということなく終わった。気を使った日本人らしいのらりくらりな感想が出た。
英語村(仮・留学先)に到着してすぐに私はスタッフの人に連れていかれて叔父と別れた。
「写真、送るよ」そんな言葉を別れの言葉にしたが、今まで送れていない。家族は特別な体験を私にしてほしくて、私にその記録を見せてほしくて、毎回そうせがむ。同じ血の匂いがする叔父にそう言ったが、あんまりピンと来ていない気がした。
英語村は外国人の英語教師がたくさんいて、そこで生活しながら英語を話す子供たちもたくさんいた。殆どが中学生から大学生。(体感で最も多いのは中三。14~5歳くらい)
施設内では日本語が禁止で殆ど英語で会話する。
一応国際教養学部で一年以上英語を大学で学んできた身としてはそこまで難しくないことだが、中学生から高校生だと、英語が難しいという偏見がありそうであまりうまくできないんじゃないかと思っていた。しかし、そんな心配とは裏腹に子供たちのほとんどが英語を話そうと努力し、生徒間でも英語を使おうという意識がある。
どこか自分の中で自身が湧いた。
いつもどこかにあった何か自分に対する不信のようなものが取り消えた。
年長者で、英語ができる。ということが私に自信を与えてくれたのだ。
何かの精神疾患で、同年代といると不安になりやすい人物が、年下のグループに入るとリーダー的気質を持つようになるというのを聞いたことがあるが、それに似た症状を自分は持っているのだろう。
適材適所。私の居場所はここなのかもしれない。
半信半疑でそう思いながら、気づけば夜のBBQに参加していた。
同居人の中学生とともに参加したこのBBQは三十人ほど参加していたように見える。
初めてまみえる学生たち。大学生でありながらこの雰囲気に呑まれて、また元の自分に戻ってしまいそうな気がした。
だが、少なくとも、一人にならないようにペアとなる同居人を連れてきたのだ。
準備は万全。リア充的ムーブメントに参加して、少しでも成長を得るべき。
肉を食い、焚火でマシュマロをし、多くの学生(中学生~高校生)と交流を持った。BBQは危うげなところはありながら成功を収めた。私にとって。
一度上手くいくと後は川の流れのように。
とはいかず、二十七日から今度は同居人に悩まされることになった。
まぁ、その前に二十六日の夜。
これはとんでもなかった。
下手したら死んでいたかもしれない。
北海道の気温は東京よりも低く二十六度前後であることが多い。なので、エアコンなんてつけずに生活できる、というのが前情報であったのだが窓を開けなかったらそんなことは全くない。
熱帯夜。
リップスライムの熱帯夜が真っ先にイヤーワームするくらいには熱帯夜だった。
寝苦しい。
汗が凄い。
それから、不快感で目覚めた瞬間に起こる脱力感と脱水感。
明らかに熱中症か、脱水症かになるだろうという未来が見えた。隣で暑さに悶える中学生を暗闇の中で覗きながら、彼が隣で干からびて死ぬ未来すら想起したが、その前にまず自分だと、水道水をがぶのみしたのを覚えている。
その次の日からはちゃんと窓を開いて空気を循環させるように努めた。
何一番の大敵は籠る熱気だったのだ。人間は巨大熱源。空気に乗せて熱を逃がさなければ永遠と部屋の内部の温度は上昇し続ける。換気の重要性を再確認させられた。そして、水道水が案外飲めるということも。
暮らし始めて二日の二十七日は子供たちと遊んでいた記憶がある。
カンバセーションルーム、いわゆる談話室がありそこではこの英語村に来た留学生たちはそこに集まってこぞってそこで英会話をしていた。
英語で卓球したり、普通に会話したり、いろいろだ。
まぁ、そこのディテールはまた別日の日記に書く。




