七月三日
七月になった。
2023年も半年が過ぎ去り、夏も盛りを迎える。
頂点までいってしまえば後は降りるだけ。
頂点に向かう道中なのに、その先に待つ萎みを想像して切なくなる。
そんな自然と湧いてきた切なさに夏盛りの盛り上がりの雰囲気を邪魔されるのは不本意だが、それもまた情動であれば。
物書きとして、様々な感情を持つのは好ましく、敏感な感覚は重宝する。
しかし、それは人としての生きづらさに直結しているように思う。
私の場合は情報の取得に偏りがあり、自分の心をざわつかせる自己にとってマイナスな事象に敏感である。劣等感やプライドを傷つけられることに対しては怒りと憤りと諦観のトライヘリックスの中で何度も増幅され、記憶が膨張する。私の印象や想像がくっつくことで一秒未満の微細なことでも、一時間の屈辱に変わる。
すれ違った歩行者の視線、電車内の誰かの会話、会話の中の噛み合わなさ、そんなことに苛立ちと失意を覚える。私が分かっているのはそれらの半分くらいは私の中で作られた妄想と固定観念の柱で支えられたサーカスのテントに過ぎないということ。
私はこれまで誰もが私に注目していないと思っていた、けれど見ている人は見ている。
存在していないもののように扱われると、自己肯定感が下がる。
自己肯定感が下がると、自分の体は透明になったような気がして他人の視線を感じなくなる。
そうすると今度は自分が他人を無視するようになる。
これは自分が傷つきたくなかったり、「見えなくなった」過程で他人との交流をしないことに慣れてしまったからだ。
透明人間が透明人間を量産する社会。
感覚は強くセンシティブに持ち、他人の存在を肯定しなければ自分の存在も肯定されない。
私たち人間はお互いにお互いを観測することで、不透明さを確保し、立体感のある影ある人物として成り立っている。
透明な人間には光が当たらないから、影もできない。
齧りたての知識をまた披露することになるが、西洋美術では光と言うのは大事なファクターだ。
光の質感がしっかりしたものなら例え、ただ机に置かれたガラス瓶でも果物籠でも、美術館に置かれるほどの魅力を放つ。
だから、モノを描くならばより一層その書き手自体が光を浴びて、より克明な影を背負わねばならない。ロココな優雅さもよし、どぎついコントラストを宗教画のように込めるもよし。
光あれ。
影あれ。
人の眼よ、透明に不透明を映せ。
 




