六月二十七日 国立西洋美術館
最近美術に嵌っている私は一念発起して上野の国立西洋美術館に行ってきた。
昔にアルチンボルド展で一度だけ訪れたことのあったそこは記憶の中の印象とかなりかけ離れていた。
まず、門をくぐったところで出迎えてくれるのは弓を引くヘラクレスや地獄の門、カレーの市民。
青銅の彫像たちの躍動感は柔らかさと豪快さを含んでいて、生き生きとしている。
ほとんどがオーギュスト・ロダンの作品群だが、それは施設内に入ってすぐのところでも見られる。チケットを受け取って中に入ると空調がかなり効いていて涼しかったが、すぐに寒いと思うほど冷えていることに気づいた。きっと美術品たちの劣化を防ぐためであろう。
美術館内は現代建築風で通常展示の入り口あたりのエリアは一本のコンクリートの柱が細く聳え立ち、高い天井を一人で支えていた。この美術館自体も芸術作品であることが感じ取れる。そして、そんな柱から離れてまばらにロダンの青銅像たちが待ち構える『洗礼者ヨハネ』『青銅時代』『オルフェウス』などなど。人体の動きや筋肉、はては骨格さえも内側に作りこまれているのではないかと思うほど生々しい。オルフェウスの手に持った金庫のような琴は重そうに見え、洗礼者ヨハネのおもむろに出された左手には躍動感を感じた。
わくわくする邂逅だ。いやしかし、こうして人体像を三百六十度から舐めまわすというのは中々ない機会で純粋な好奇心として興奮した。
ついでそのままチケットを切ってもらい、上へ上るスロープを上がっていくと15世紀ごろの宗教画たちとご対面することになる。『聖母被昇天』や『聖アンナと聖母子』などのキリスト教的モチーフが散逸し、宗教的な重みと光を感じる。最後の晩餐やゴルゴダの丘、ゲッセマネの園なんかの場面はとんでもない重さと悲しさが伝わってくるが、引き込まれるような魅力がその悲しみの中にあるのもまた事実だった。
そうして、時代は16世紀や17世紀に移っていくとキリスト教的なモチーフもぽつぽつと見られるが、だんだんと風景画だったり、キリスト以外の人物に変わっていったりする。額縁の方もだんだんと華美な装飾が増え始め、植物のような模様があしらわれ始める。18世紀にもなるとそれはロココ調として完全な芽吹きを得る。宮廷や貴族に使え始めた画家たちがご婦人たちの絵を美しく書いていく。オランダ風景画のような光の使い方に、イタリア風の陽気な雰囲気がブレンドされたロココ時代は一つ間違えればモネの印象派の先取りのようにぼやけてしまいそうな危うさがありつつ、ちゃんとした明暗のメリハリがある。多くのフランス人たちがイタリア・ルネサンスの絵画を学んで自分たちの芸術を芽吹かせたバロックの時代の到来が美術史通りこの国立西洋美術館の作品にも痕跡が現れる。
別のブースに移動すれば、近代美術が多くなっていく。モネ、マネ、ルノワール、ゴーギャンを含む近代の人間たちが描いた絵。特にモネの水連は他の絵よりも数段大きくインパクトがあった。想像していた大きさの二倍ぐらいあった。サイズがどのくらいかは分からないが恐らく縦二メートルは超えていて、横も同じくらいだろう。
モネの絵は同じブースに三枚あったので、それぞれを年代順にみていくといかに上達していったかが分かりやすくなっていると思う。二十世紀初頭に描かれた橋の絵は光に拘り過ぎて、ほとんど印象だけのぼやけた絵になってしまっていたのだが、そこからもう一つの船に乗った貴婦人の絵なんかを見ると湖面の反射や波に揺れる光などを丁寧に描写するようになっているし、水連の出来は言わずもがなだろう。
五十代ごろのモネが自分で作った庭、そこにつくった湖と水連を描いた作品こそがモネの『水連』というわけなのだが、実際の庭も今でも現存しているようなので、パリに行けば見に行くことが出来るという。モネの庭が絵よりも有名になる日が来るかもしれないと考えると、面白い美術師モネではなく、造園師モネとしての解釈、未だにモネが造園師ではなく美術師であるということはこの睡蓮がまだ庭よりも美しいことの証明かもしれない。
一度スロープで上がった美術館を今度は、階段で降りていくと近現代の美術が多くなる。現代アートだったり、ピカソだったり、ムンクだったり。そのうちバンクシーでもみつけて、壁事刳り貫いて持ってくるのではないかなと思うほど、中世美術から離れてきた場所。歴史のまだ浅い者達でありながらやはり目を惹く者である。美の在り方が見た目よりもコンセプトに移行しつつある現代美術はそのコンテクストを小説のように読みほぐす必要があり、自分なりの解釈を見つけることでその絵の面白さを感じることが出来るようになる産物だと感じる。私にはピカソの絵をどう解釈するもなく、ありのままを受け止めてしまいそうなので、あまり美しさを感じることはできなかったが、この現代コーナーの奥側でひっそりとゴーギャンの隣に咲くゴッホの『薔薇』を見た時は走馬灯が想起するように二人の悲しい関係が思い起こされたものだ。ゴッホとゴーギャン、南フランスの黄色い家の二人はともに切磋琢磨する仲間だったが、仲たがいののちに離散。そして、ゴッホはゴーギャンとの別れを引き金にするように自分の耳を切り、サン・レミの精神病院に移送されるのはあまりにも有名な話。この『薔薇』は精神病院に連れていかれた後に描かれた作品だった。ゆえにこれを描いたゴッホはゴーギャンとのやりきれない別れを経験しているのだ。そんなゴッホの作品が現代の美術館で彼の作品の隣に展示されている。これほどまでに尊いことはない、歴史を超えての再開を祝福するように私は写真に収めておいた。
その後一通り全てを見終えた後、美術館の出口にある『すいれん』というカフェでパスタセットを食べた。中々これが美味しかったな。
美術作品群によって興奮冷めやらぬ私はそのままショップに入って三冊の美術関連の本、モネモチーフの紅茶(15グラム)、ゴッホの『薔薇』のコースター、アルベール・マルケの『レ・サーブル・ドロンヌ』のしおりを買って帰った。これだけ買って六千円ぐらいなんだから、若者はディズニーランドよりも国立西洋美術館に足を運ぶべきだ。お土産がとてもいい。
というわけで一日を美術に塗れて大満足な私だが、積み本が五冊に増えてしまった。図書館で借りた本もあるというのにこれからどうやって詠み終えたものか。まぁ、どうにかなるだろうと、思いつつ今日はこのくらいで。




