六月二十六日 美/不安
最近は美術に嵌っている。
何かを描いたりするわけではなく、美術にまつわる教養書を見るのが好きなのだ。
美しいものに触れると自分も美しくなれる気がする。知識に触れることで賢くなれる気がする。
きっと私を動かす動機と言うのはそういう幼げで背伸びしたいような簡単なものだと思う。
高尚な何かになりたい、そんな欲求が私にはあるのかもしれない。
王族、貴族、金持ち。
偉大なる血筋というのはいつだって美しく、過酷な運命を背負い、それを乗り越えてより完成された美に近づく。
神の長ゼウス。その息子にして大英雄、ヘラクレス。ペルセウスやテセウスら、英雄の子孫。
彼らの物語は美しいが、彼らを彩るのは何時だって芸術である。現実よりも理想化されつつ、まるで本物のように極限まで柔らかに作られたギリシャ彫刻の数々が彼らの英雄伝をより、強固に、かつ人々の想像をより共通化させたのだ。
芸術家、というより美術師というのは英雄を作る魔術師なのだ。
画家というのは元々王侯貴族をパトロンとして栄光を後世まで遺す役割を担ってきた。画家の描く絵はただの記録ではなく、そこに込められているのは美であり、名声であり、富であり、繁栄を象徴する未来だ。絵のリアリティの中にその人物の栄光をたたえる象徴がたくさん入り混じる。或いは白馬にまたがったナポレオンの絵画ように現実以上に良いものとして再構成する場合もあり、画家は栄光を作り出すものでもあった。
画家は高貴な存在であり、美を追求する限り魔法使いのようでもある。
私が思う魔術や魔法と言うのは人が自然やある枠組みの中で見つけた『美しさ』のことだと思う。
向日葵の中にある奇妙な配列や方角と言う概念に関連付けられた魔術、数字という概念に紐づけられたイメージがその代表例だろう。
自然界には人間には認識できないけれども、緻密に組みあがった法則性と言うのがある。それを見出した時、人は美しいと感じるのではないだろうか。もちろん自然の中だけじゃない。ルーブル美術館に所蔵された『モナ・リザ』と『ミロのヴィーナス』に共通の印象を感じたり、俳句のリズムに懐かしさを感じたり、人の歴史の中にも奇妙な合致や感動を感じることがある。そこにも我々は美しさを感じる。歴史は一つの人類という種族がどのように反映したかを知る法則の例示、数学は数字から法則を見出す視点、天文学は星の配列で未来を予測する観測。そのどれもが『美しさ』を感じて始まったものたちだろう。
私の言葉は私のいいたいことを言いつくしてはくれないが、ともかく私たちは『美しい』と感じることが出来る。でも、それをどうして美しいと感じたかを言語化するのは難しい。その難しさ、どうして美しいと感じたかを言いあらわせない神秘性が魔術的なのだろう。
美は魔性であり、神秘。
それを創出する芸術家と言うのはきっと我々が聖書に見る、創造主に近い権能を持つものたちなのだろう。
ミロのヴィーナスやダビデ像の作者の血筋がどこへ繋がっていったのかを辿るのは不可能だろう。それにその子孫たちが芸術家を間違いなくやっているわけでもないだろう。しかしながら、彼らが断片的にでも表すことが出来た『完全な美しさ』を見て、様々なアーティストが生まれたのが事実である。日本人である我々ですら、見たことも無いモナ・リザやヴィーナスを美しいものだと知っている。それほどまでに彼ら芸術家の祖先が作ったものの影響は大きく、それは後世の芸術家たちの血や骨となっただろう。血は繋がらずとも、彼らの技術や思いは継承されていく。そこに私は美術の血筋を感じたのだ。私にはこのように文字をたくさん書くことくらいしかできず、美術館での感動を描き起こすことくらいしか彼らとつながることはできない。美の世界に入門できないツールと嘆いてしまうかもしれないが、私はその憧れと手に届かない失意を『美しさ』を文字的に描き出すための薪にしたい。
『美』は『魔術』である。
しかし、完全な美を人は認識できない。だからこそ、そこに近寄るための方法を私たち人間はあらゆる角度から見つけようと試みているのだ。
絵に、星に、数に、字に、歌に、音に、命に、動きに、自然に。
私は美しくなりたいし、美しいものを作り出すものでもありたい。
つまり私の最終目標は自分で胸を張って美しいと呼べる人間でありたいのだ。
自己肯定できる人間、そんな美術作品に至りたい。
私は最近不安がある。
私的な話になるが、私はこの間受けたテストに落第した。
もとよりそんな気がしていたが、現実に直面するとそのショックは冷水のようだし、周りの反応も私を傷つける。
プライドが高いのだろう。このプライドはどこから来るのか、これが削れれば私はもう少し素直になれるし、人を恐怖しないモノになれるはずなのに。
失敗することは恥ずかしいことではないけれど、だからと言って怠慢に失敗するのは美しくはない。それを私は知っているはずなのに。
理解していないモノを理解していないからこそ、手の施しようがなくて、縋りどころがなくて、この後自分がどうすればいいのか分からないと苛立っている。
自分の中の万策が尽きていることを何度も自覚させられながら、次が迫りくる圧搾的なストレスが私を追い立てる。逃げ出したい。
逃げることは美しくないわけではない。けれど、ここで逃げ出しても結局追いつかれる。つまり、私には逃げることは許されない。
けれど、このまま当たったところでどうなるというのだ。次のチャンスを掴めないままのこの状態で私はどうすればいいのか。
人を頼るしかないというが、頼れる人も居ないような気がしてならない。
私は人が苦手で、人との付き合いが嫌いで、一人でいることが最も気が楽だ。家族でも、友人でも、人と対面しているとそう思う。
けれど、それは間違った回答なのだ、と本能の私は言う。けれど、私の中には人と一緒にいることで良かった経験を覚える機能がちゃんと作動していないのか、あまりいい例がない。良い体験がないはずなのに、本能は孤独よりも集合することを選ぼうとする。私は集団行動が苦手だ。別に意思を出さずにヘラヘラ笑って、たまに愛想のいいこと言っていれば乗り切れるが、そんな『乗り切り』が楽しいわけでもない。次第に自分を見失って、美しさへのこだわりが無くなる。自己肯定感が低い殻こそ、そういったジレンマに陥る。私の自信の土台がない。人はどうして争いや競争をし、それで勝ち誇ることをよしとするのか、理解できない。相対的に良いと思えても絶対評価は変わらない。それなのに相対評価に拘るのか。
ルネサンスにはルネサンスの良さがある、現代美術には現代美術の良さがある。死後に評価される画家もいれば、未だに評価されない画家もいる。相対的な良し悪しで悪いと決められたものが必ずしも駄作と言うわけでもないだろう。オダリスクのように解剖学的に批判されつつも美術館に飾られているアートもあれば、サルバトール・ダリのように商業主義の奴隷と評される有名画家もいる。カラヴァッジョのような殺人犯だってその作品は美術館に乗っている。
結局、それは絶対的な評価と時流によるものだ。なのに、人は誰かと自分のパラメータを比較したがる。そもそも規格が違えば比べることすら無意味に等しい行為かもしれないのに。
人が嫌いだ。競争し、比較し、相対的な評価の下に人に優劣をつけて選びぬく社会も嫌いだ。
私はくさっぱらと木に囲まれた公園の中で子供と犬が遊ぶような長閑な社会が良い。誰も不幸でもなく、一人でいることに引け目を感じないベンチがあるような場所になってくれと切に願うが、人は言うのだろう「社会を変えるよりも、自分を変えろ」と。
美しくありたいから自分を変えるのと、社会の辛さに折れて自分を変えるのとでは訳が違う。
美しくありたい。
自分のことを自分で肯定し、一人で自分を美しく完結できる自分でありたい。
今の自分はまだソレに成れていない。だから、少しでも自分が美しいと思ったことをして、少しでも自分が間違っていると思うことをしないようにしたい。迷いなく行動できる自分になりたい。




