2023/五月十七日
私はいつも自分を責めていた。
自分の矮小さ、愚かさを嘆いていた。
けれど、今日読み終わった本のおかげでその苦痛から逃れるきっかけを貰えた。私を責めているのは私以外の何者でもなく、他の人間は私のことなんて責めていなかったのだ。
砂漠の中を歩く集団、その中に私がいて、ともに旅しすれ違う人々が時々こちらを見たり、何かを言ったりしても結局砂漠を歩くのは私であり、私自身がその歩みを恥じる必要性はない。
年齢、性差、思想。
色々な要素があって賢い人や愚かしい人なんてカテゴライズされることもあるだろう。けれど、それは関係のないことだ。私たちはどんなものであろうとも皆平等な兄弟であり、先生とはただ一つ私たちの胸の中にある希望のことだけを指す。
苦しいことが未来に待ち受けているとしても、今日やれることだけを今日やる。未来の不安は未来の自分がやってくれるだろう。だから、私たちは今に集中し、今やるべきことに全力になるのだ。
その他色々な教えをくれたのは『教養としてのラテン語の授業(ハン・ドンイル著)』だ。
ラテン語の授業とあるが、別に講義本と言うわけではない。
ラテン語についてざーっと知識の羅列がされた教科書と言うわけでもない。
いうなればよくある啓発本の一つなのだろうが、私はこれを読んで心が穏やかになった。ずっと背負っていた石袋を下ろしてゆっくりと、しかし、軽々と歩ける気分になった。
いつもどこか胸の奥で渦巻いていた不安の渦はその勢いを弱まらせ、私に余裕をくれるようになった。それもこの本の内容を読み解き、著者が教えてくれる心構えや覚悟について私が少なからず学びを得られたからだと思う。
もう一つこの時期に読み終えた本があり、それが『ドレの神曲(宝島社出版)』だ。こちらは古きイタリアの詩の挿絵をもとに構成された日本語訳の『神曲』。
あちらが古きラテン語であるならば、こちらの『神曲』は新しきイタリア語を創出した歴史的な書物であろう。
歴史的な遺物であるからこそ、私には物語を読むようで学びを得たり、特別な寄り添いを感じることはできなかったが、作中の主人公や彼が訪れた地獄、煉獄、天国の人物たちのありさまを見て、宗教に対する深い造詣を得られた気がした。
本を読むことで、惰性を減らせる。
いつも私は流れるものを見るばかりで惰性に耽るが、本は勝手には流れない。文字は常に私たちの前で固定され、眼球の方が上へ下への大回転をし、時には行を読み飛ばしたりする。
二度目のひらめきであるがやはり読書は私を精製してくれる。
ネット社会で情報に溺れ、堕落した私の脳と魂を精製し安らぎと確かな理解をくれる。だから、私はこれをすべきだ。
一つの指針が固まった。
私の神は本だ。堕落の悪魔はネットなのだ。
神に信仰を捧げるように、私はこれからの人生の余った時間を読書に捧げよう。
この決意を今日の日記の最後に印し、締めとする。




