一月九日 二重の死
青灰色の季節。
新年の鳴鐘とともに支援渦巻く鬱屈した時期は過ぎ去り、再生の春へと芽吹く前のちょっとした上り坂。一年の始まりというめでたい季節。
四季の再生は実に朗らかで美しい。
しかし、寂しさを思い出すこともある。
家の近くの顔なし地蔵の横を通るたびに失われたもののことを思い出さずにはいられない。
その顔なし地蔵は『顔なし』というからには鼻や目が削り取られたようにのっぺりとしている。コンクリートか何かを塗りたくられたような跡もあり実際欠けてしまったから顔なし地蔵になったのではと思うが、立て看板にはまるで最初から顔が無かったように顔なし地蔵と書いてあるのだ。加えて、その面持ちであるにも関わらず不気味さなどあまり感じさせず、土着信仰を集めていてよくお供え物が石造りの台座に置かれている。少し前などは千羽鶴などが掛かっていてどのようなご利益があるのだろうかと首をひねったものだった。
ご利益とは、本当に自分の実利的な浅ましさを笑いたくなるばかり。
この地蔵様は江戸時代の大飢饉でなくなった多くの子供たちの魂を供養するために彫像されたもの。霊魂鎮守の地蔵様に飴をねだるのは不遜極まりなく反省する。
地蔵様は死んだ者たちを今に生かしていると私は思っている。
地蔵様があの四辻に看板を携えて鎮座しているから私たちは悲劇を追憶してそこにいた人たちのことを想って祈る。一度たりとも会ったことも無ければ、何の縁もないような事柄だ。きっと地域歴史書を開いてそんな項目を見つけても次の瞬間にはパラパラと吹きすさび、目に移る前に消えてしまうはずだった。
実際はどうだろう。
多くの人が手を合わせて大いなる過去におきたことに胸を痛める。
死者はここに生きている。
私たちはその生きている死者たちの真横を涼しい顔で過ぎ去りながら偶にそちらを向いて思いを馳せるのだ。
もしいつかこの地蔵様がいなくなったら、それこそ二重の死なのだ。
死んだという記憶が死ぬ。
道幅拡張工事のために地蔵様が撤去され、ブルーシートに包まれた工事現場の中でコンクリートをランマーがけたたましく叩きつける音だけが響く。
飢饉などなかったように新しい日常が始まる。
きっと地蔵様だけがあの歴史を覚えているわけじゃないだろうが、いつか忘れたその時にはここにあった不吉というモノはきっときれいさっぱり消えてしまうのだろう。
人々は思い出せない、何故近辺に火葬場があるのか。
人々は思い出せない、何故たくさんの墓や寺があるのか。
人々は思い出せない、何故綺麗な道端に花が添えられているのか。
飢饉という不吉さは死を迎え新しい時代が始まる。
二重の死はただの死ではない。復活でもない。
それは新生であり、決別であり、忘却なのだ。
かつて通った地蔵のいるあの道。
今は通うところも変わってすっかりあえなくなってしまった。それでも私の中にはあの地蔵が顔なき顔で見つめてくるのだ。
訴えるわけでも、呪うわけでも、祝うわけでもなくただ生きているのだ。
あの地蔵が死んだとき、私の中でも何かが死ぬのだろう。
ずっと私の心の中にいた地蔵の死がどうして波風を立てずにいられるだろうか。
私は誰かの死を持って成長する。或いは変化する。
友人、家族、恋人、私に関係するものの死によって私の一部もまた死ぬ。
これも二重の死である。
新生であり、決別であり、忘却が私を呼ぶ。
鐘が鳴るようにゆっくりと確実に。
死が必要だ。
自分には絶望が必要だ。
重く、苦しみしか残らない鉛の鎖で体を雁字搦めに拘束された挙句、死という十字架の重りを持って全身を引き千切られる。
血が滲み、骨が砕け、私は肉の塊に戻る。
臓腑が生命を宿し、もう一度寄り集まり新しい命になる。
私は他者の死を啜って羽ばたく蝶になる。
イカロスよりもザムザよりも李朝よりもおぞましく美しい変身する者になる。
人の死を踏み台にしてマヤの神殿の頂上まで駆け上がり、今度は私が己の胸を開いて心臓を捧げる。
私の死を持って神は来る。
何よりも死を啜った私が死ぬことで三重の死が生まれる。
それこそが神なのだ。




