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大学生日記  作者: 江戸銀(エディ)
退寮後編
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八月三十一日 コロナ


 三日坊主という言葉があるが、飽きてやめてしまえば三日も数か月もさして変わらない五十歩百歩なことだ。人間の営みが後数千年続こうが、数万年続こうが、結局は終わりが来るだろう。永遠なんてないのだから。どんな惨劇も、喜劇も終わりがないことはない。「夏の夜の夢」や「ドナー隊の惨劇」にしたって、終幕は降りたのだ。この日記シリーズもまた同じことだった。寮生活の記録と私の内面の変化を綴ってきたこのシリーズだって終わる条件というモノがある。


 条件だ。

 「夏の夜の夢」ではオベロンとティターニアが仲直りすることが条件だった。

 アメリカ史上最も凄惨な事件「ドナー隊の惨劇」では救助隊がくることが条件だった。


 それでは、この日記における「条件」とはいったいなんだというのか。

 それは寮からでることだった。


 実は、私はここ数か月前に退寮をしていたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夏が来て、平均的な大学生と同じような休みを取る。友達と温泉に行ったり、カラオケに行ったり、スポーツをしたり。文面だけ見ればそれは充実した要素たちだ。私はあまり感動しずらい性格なので、そういう形骸的な情報というか、タイトルを記録しておかないと実感が得られないのが偶に傷かな。


 そんな最中私の父がコロナに罹患した。

 私は初めてコロナを身近に感じ、その病の刃が喉元に迫っていた。その恐怖たるや、だ。

 ここ三年間は一切かかる気がしていなかったのだ。だが、とうとう順番が来てしまった。私の番が来るというにじり寄る気配、そしていつしか覚えだした喉の違和感と魂が抜けたような感覚。


 罹ってしまった。


 そうは気づいていたのに私は気づいていないふりをした。外出などはしなかったが、こんなものはエアコンの行き過ぎた冷房と除湿がもたらした喉風邪だと思いこもうとしていた。しかし、そんな言い聞かせるような暗示はコロナには通じなかった。


 妹も感染し、病院からは陽性反応を示された。


 その次の日には全身が燃えるように熱くなり、寒気と暑さの両方を感じながら布団の中で蒸し鶏のようになっていた。まさか自分の体温だけで火傷っぽい皮膚感覚を覚えるまでに至るとは思わなかった。氷枕で頭を冷やすのはそういう火傷にならないようにするための一つの大作方法だったのだろう。

 何も食べる気にはなれなかった。喉の腫れは恐ろしいほど膨れ上がり、痛みは針玉が常にくっついているようなものだった。嚥下ができない。いずれ呼吸も出来なくなるのではないかと思うほどだった。死を感じることはなかったが、何もやる気になれなかった。動画を見ることも、ゲームをすることも、ましてや何か小説のアイデアを考えようという気にもなれなかった。そこまでなのだ。新しく何かを受け入れることが負荷になりえるくらいには私は衰弱していた。朝から夕方になるまで眠り続け、食後に飲まなければならない薬なんていうものを恨みがましく、不安に思った。なぜなら、私たちは食事ができるほどの容態ではなかったから。


 久々の病だ。今はこうして日記を書けるほどには症状が緩和されている。だが、また明日には夕方まで何もできない状態に陥るかもしれない。その前にこの記録を書かねばならないと思った。これは今日の私の遺書のようなものだ。まぁ、陽性反応はでたが私はいったいどの「コロナ」にかかったのだろうな。デルタなのか、オミクロンなのか、ケンタウロスなんていうのも今はいるらしいじゃないか。この一度きりにしてほしいものだ。食事を摂ることはできるようになって気づいたのだが、味に苦みが含まれているように感じてしまう。味覚障害が残り続けるのは人生の三分の一を損することになってしまうだろう。私はそれを危惧していた。今となっては為す術がない。


 ところで、コロナによる良い影響もあった。この日記をずっと集中して書けることや小説をじっくり読むような、いわゆる「集中力」ができた。


 それは今のこの衰弱した私に他の可能性を挟もうと並列的に思考するほどのパワーがないことに由来するだろう。今までの私は余りにも次から次へと興味の対象が揺れ動いていた。動画サイトで動画を見ながら次に見る動画を探し出すほどだ。だが、今はそんな活発さや余裕がない。だから、目の前の一つに集中できている。これは私にとって意外な恩恵をもたらし、今日中に小説を一冊読み終えることができた。もし、この「疲労した状態」を意図的に発揮できる薬や技術ができたら、私はより一つのことに先鋭的になり、より優れた存在を算出することが可能になる。


 毒が薬になるように、病が新たな恩恵をもたらすこともあるのだろう。人類とコロナが共存できるような最良の選択がここにあるように私は感じている。新しい思考方法――とまではいかないが、意図的に注意散漫な状態から切り替えることができる。煩雑になった思考を切り捨てただ一つだけを狭窄的に考える。それは新興宗教が新しい信者を産むときに使う精神的狭窄に近いのかもしれないが、それは裏を返せば新しい考えを受け入れ続ける用意ができることにならないか。


 私が読んだ小説の一つが人間と小麦の共生を描いたものだった。

「人間が繁殖するために小麦を繁殖させ、小麦が繁殖するために人間を繁殖させる」

 人類社会にもたらされた農耕革命は原初、狩猟が行えるほど豊かな土地ではないところから生まれたという説がある。人間は小麦を育てることで、食糧を得て命を繋ぐことができた。日本人の体内などは米がなければ糖尿病や様々な病を発症するまでに「米」に支配されている。

 それと同じように農耕が始まった時代の人間も小麦を育てているようで、「小麦」によって支配されていたのかもしれない。いや、それこそ、今も「小麦」がなければ弊害をもたらされる人種もいるだろう。

 小麦はそういう「不可欠的要素」になることで、人間に繁殖を任せてきた。


 両者は互いに互いを繁殖させるための支配的ファクターになった。古代の小麦や穀物の野性的な性格が人間の遺伝子にまで作用したと思うと、まるで何かのホラー映画のようだ。


 ウィルスもそうして人間を成長させてきたものの一つだ。しかし、彼らは私たちと共存していると言えるのだろうか。ただ精子は医学的にはウィルスだとされている。考えてみれば精子が卵子に侵入し、自分の遺伝情報を混ぜ込む性質は確かにウィルスのようであると言える。

 ウィルスは自分で繁殖することはなく、宿主の細胞に侵入してウィルスの設計図を渡して複製をさせる。それは卵子に自分の情報を組み込んで、新しい子孫を作らせようとする光景と同じではないだろうか。


 私たちの祖先は最初は自分自身を複製するだけの単一的な存在だった。複雑な器官などなくて、もそもそとした毛だけで動く矮小な存在だった。それがいつしか同種の遺伝情報を交換しだすようになり、更には精と卵という交配専用の細胞を作成するようになった。それがオスとメスがほとんどの生物に見られる由縁である。精子にウィルス的な特徴がみられると書いたが、実際はどっちが先だったのか。いや、ウィルスのような生物よりも単純化された存在はきっと生物が存在するよりも先に存在していたのだろうが、そうすると私たちの祖先は退行してウィルスを模倣したと言えるのではないか。基本として私たち生物は過去に一度失った特徴をもう一度獲得することはできない。魚に戻ることはできないし、それ以前の単細胞に戻ることもできない。それは一部分を取ってもだ。


 ……専門外のことについて語りすぎてしまった。それどころかただの大学生が意気揚々と知ったばかりの知識を披露していてはそこに矛盾や誤解が生まれるのは当然なのだ。私の疑問は私にとっての疑問でしかないのだろうな。


 ともかく、ウィルスや病にはどこか特別な進化を促す作用があるだろう。私たちがその進化を促す作用の正体を明かし、扱えるようになったら、より精神的にも肉体的にも新たな利を得ることができるようになるだろう。熱病に浮かされた時にしか見ることのできない幻覚から生まれた創作意欲は途轍もなく凄まじいのだ。

 これが病による集中力の底上げ、或いは混沌とした思考の削減作用だ。




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[気になる点] 同じ文章が繰り返されているのは 風邪のせいにしておきましょう [一言] 大丈夫かい? ひとり暮らしで病気になるのは辛いよね 苦しい!って当たり散らす相手がいるのは 幸せだとか思ったりす…
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