喪失
恋しているから、盲目になるのではない。
盲目だから、恋ができるのだ。
byヘルマン・ヘッセ
「3、2、1…。」
カウントし終わったら発信ボタンを押す。
いつも私が、決まって勇気がない時にする恒例行事だ。
………
「…またダメだ。」
押せばいいだけなのに、私の意志と反して指は、頑なに動こうとしない。
あの日までは何も考えずに当たり前のように話せたのに何故だろう。
伸ばしただけの人差し指。
ゆっくり戻してまた、カウントを始める。
「3、2、1…。」
あいつの最後に見た顔がチラつく。
捨てられた小汚い子犬を見るような目で私を見ていたあいつ。
「おまえはホントにバカだな。」
そう言って荷物をまとめて出ていったっけな。
あれがあいつの最後の言葉だった気がするな。
つい1か月前のことなのに鮮明に覚えてないのは、きっと人間の防衛本能のせいだろう。
あの瞬間、一言一句覚えてたら今頃きっと、私は壊れてるだろうから良かった。
これで良かったんだ。
ただ、あの言葉が未だに腑に落ちない。
自分で言うのもなんだが、私は頭が良かった。
小中高と、ずっとサボらずに勉強してきたし、行きたかった専門学校にも受かったし、
周りの人間のことを考えて行動できるし、空気だって読める。いわゆる世渡り上手って言われるやつ。
なんでそんな私のこと「バカ」って言ったんだろう。
ってかあいつの方がバカだし。
あいつ遠賀高校中退してひびき高校いったし。
音響の専門学校いって、音響についての知識いっぱいつけて警備員に就職したし。
絶対あいつの方がバカだし。
「3、2、1…。」
…………
また、発信ボタンは押せなかった。
これで何回目だろう。
諦め、スマホを置いて、辺りを見渡す。
先月まで一緒に住んでたのに、あいつがここに居た痕跡はもう、どこにも残ってない。
ひとつ残らず自分のモノをまとめて出ていったあいつの几帳面さを恨んだ。
鼻をこすりつけるように、枕に顔をうずめる。
やっぱりどこにもいない。
柔軟剤の匂いに苛立つ自分に苛立つ。
もうとっくに終わったはずなのに、未だどこか期待している自分に苛立つ。
私の大きなため息は、近くを通ったバイクの音に連れ去られていった。
あの日からほとんど外に出ていない。
もちろん、会社にも行ってない。
いつしか会社から電話がかかってくることも無くなった。
最低限の買い物だけ。
部屋にはコンビニ弁当とカップラーメンの空。
些細なきっかけから堕落するんだなあ、人間って。
「ユガッタメールユガッタメールユガッタ…」
静寂を押し退けるようにスマホが鳴いた。
紛らわしいがメールが届いた音じゃない。電話の着信音だ。
もしかしてあいつから?
嬉しさやら戸惑いやら不安やら、いろんな感情が一気に私を襲う。
あたふたしながらスマホを見ると、黒い画面には知らない番号が表示されていた。
「なんだ、期待させないでよ…。」
下がりきったテンションのまま電話に出る。
「はぁ、もしもし…?」
「あっ、もしもし?パカ美?」