夕立のような 5
カタン、そんな物音で目が覚めた。
時計を見ればいつもより起きるには少し早い時間。電気が点けっぱなしでこれが原因かと思うもまだ台所からカタカタと物音がしている。
誰だと思うも圭斗、宮下、先生はいる。
一瞬にして最悪の展開が脳裏をよぎれば眠気は瞬時に吹き飛んだ。
みんなを起こすよりも先に駆け出して裸足のまま台所へと飛び込めば、包丁を自分に突き付けて暗くても分かるほど顔を真っ青にさせて涙を流しながらゆっくりと俺へと振り向く。
「陸斗、ゆっくりと包丁を下ろして手を離せ」
説得するもプルプルと頭を横にふれば涙がこぼれ落ちた。
「も、もう、生きるのは嫌だ」
絞り出したような悲鳴に俺は違うと言うように頭を振って陸斗に飛びかかる。驚いた陸斗は一瞬固まりその隙に包丁の切っ先を首から遠ざける事ができたもののまだ手を離さないまま。
今の陸斗に届く言葉何て思いつかない。
だけどだ!
「あんな奴らに陸斗の!
人の痛みや苦しみを知って耐える事で育ったお前の優しい心を自分から手を放すな!」
ひたすら理不尽な目に遭っていても苦しいとか言えなかった弱い心に、成長と共に周囲は新しい服や靴に変わっていく中でまだ着れるだろうと言われてそれしかない服を着続けるしかなくて指を刺されて笑われてもそれしかないそんな嵐の中で声に出す事も諦めてじっと耐えに耐えて抜け殻のようになった心に形ができた。
優しいと価値を加えてくれた。
あ……
見えなくて形のない何かが生まれた。
ぽっと浮かび上がるような明かりが灯った。
同時に暖かくてじんわりとした温もりが広がり、気がつけば何よりも求めていた温かな安らぎの中に閉じ込められた。
「このまま何も抵抗できずに終わるお前じゃない。何てったってこんな思い切った事をしようとした勇気もある。
陸斗、お前は、陸斗自身が、思っているよりもずっと強い。
だからあとは少し上を向くように顔を上げろ。せっかく宮下が圭斗とよく似た目をよーく見えるように切ってくれたんだ。
あいつ馬鹿だけど笑顔がいいって意外なことにモテたんだ」
初めて聞いたのか、それとも嬉しいのか誇らしげな笑みを作る。このお兄ちゃん子めと一人っ子の俺としては妹、弟に頼られる生活が少しだけ羨ましい。
「大丈夫、お前はお前の持つ勇気を周囲の人にも、ほんの少し、分ける、みんな、頼ってくれるの、待っている、から、そんな勇気から、始めて、みると、いい……」
綾人さん……
力なく俺に体重をかけて崩れ落ちる体を受け止めようとすればそのまましゃがみ込む事となり、そこでやっと気づいた。
べったりとした赤の命が両手に塗られていた事に。
「あ、ああ……」
両の手のひらを彩る温かな命を握りしめ
「にいちゃーーーんっっっ!!!」
ほんの少しの勇気。
誰にも見向きされない存在だったけど、いつも気にかけてくれた兄・圭斗に全力で訴える。
力の限り、大声で。
いつも一人で、助けを求める相手もいなくて。
だけど教えてくれた勇気が人を頼れと言ってくれた。
みんな待っていると言ってくれた。
今まで出した事のないような大声で、まるで産声のように兄を何度も呼ぶ。
すぐに異変を察した足音が集まって、床に崩れ落ちて痛いと叫ぶのを唇を噛んで堪え、嫌な汗を流しながら綾人さんの左胸に刺さる包丁を刺したまま宮下の兄ちゃんが病院へと運んでくれるのだった。
「寝ぼけたまま料理しようとしてうっかり転んで自分を捌きそうになった何て流石に聞いた事ないわ」
「いやあ、自分でもないわーって思っているんだからそんな目で見ないでください」
目が覚めた場所は古ぼけてくすんだ色をした天井の病院だった。
早朝と言うには早すぎる時間に担ぎこまれ、連絡したあと包丁を左胸、やや肩の下あたりに刺されたまま宮下に病院に運ばれてすぐに処置を受けて輸血してもらった所で急激な眠気に襲われ意識を取り戻した時は朝の巡回の、昨日陸斗の診断書を作ってもらった先生が傷口の消毒をしている時だった。うん。めっちゃしみました。
外来だけじゃないんだと思っていれば休日の緊急もやると言う地方ならではのマルチ対応さはありがたくもあり、気まずさも覚える。
「専門じゃないが、こう言う懸案の子は施設に預けて監視するのが一番だと提案はするが?」
すでに髪の真っ白い臼井先生はその名に反して髪はもっさりとしている。
「俺としては、なんで夏休みを目の前にして病院生活をしないといけないんだって言うけど?」
その主張に臼井先生は笑い
「まあ、ここは専門の先生も居ないしな、あの子をここに連れてこなかったのは正解だ。自殺願望があればすぐに檻付きのお部屋にご案内だが……大丈夫なのか?」
「さあ。だけどあいつは変わろうとしている。役目を与えられて一つずつ認めてあげるのが一番の薬だと思うんだ」
言えば臼井先生は若造が何を判ったような口をと言うも
「ありがたい事に俺は在宅勤務でこれから小屋の修理で人の出入りも多い。あいつに対応してもらい、仕事に対して感謝される事を覚えないといけない」
「そこからか」
「そして今まで憶えてきた技術、掃除洗濯料理も感謝されるべきだと言う事も知らなくてはいけない」
「それはお前にも言える事だぞ」
「これでもバアちゃんの孫だ。してもらった事に感謝しないとゲンコツされる日常を舐めるなよ」
「さすが吉野さん。うちの看護師を鍛えただけあって孫と言えど容赦ない」
ぺしっとおでこを叩いて笑う先生はそれでも真面目な顔をして
「今回は見逃すが次はないぞ。
俺もまだ孫が可愛い年頃なんだ。この職を手放したくないんだよ」
くさっても鯛、噂ではどこかの大学病院から飛ばされて来たとは聞いた事があったが、医師としてはちゃんと患者を観ていたそんな医師に感謝をして
「で、退院はできそうですか?」
「今退院の手続きをしている。痛み止めと化膿止めの塗り薬と多分これから熱が出るだろうから解熱剤と抗生物質は強いから胃薬付きだ。せっかくだから病院の昼飯を食べて行くといい。薄味でヘルシーだぞ。若者の口に合うか分からないが」
「腹は減っているのでせっかくだから食べて行きます」
言えば食欲もあって大いに宜しいと大げさに頷いてみせた。
「午前の外来が終わる頃迎えにきてくれる人かタクシーを呼ぶといい」
「いえ、多分ロビーで待っているので呼べばくると思います」
「なら早速呼ぶといい。食欲旺盛、術後の経過も順調、傷口も見事な位に綺麗で縫合も完璧、そして当人も退院したがっている上にここを逃すと元気すぎる患者を月曜日まで強制的にご宿泊と言う病気で入院している患者にとって迷惑な以上、病院の病床を埋める理由にならない」
六人部屋に一人しかいないこの状況はを無視をする。
「せんせー、もうちょっと怪我人をいたわろうぜー」
訴ても先生は笑うだけで「月曜日に二人で患部を見せに来い」と予約までさせられてしまった。




