夏がくる前に 6
指先から血の気のない色に染まる頃
「綾人さん!」
手から包丁を取り上げて飯田さんが真剣な目で俺を見ていた。
目の前になんで険しい顔の飯田さんがいるのかと思えば飯田さんは俺を水場から離して小屋の縁側に座らせてくれた。
「あなたは一体いつから包丁を研いでたのですか?まさか俺が出かけた時からずっとですか?」
言われてぐるりと周囲を見回させられた。
陽は南天を迎えようとしている。そして飯田さんがそばに並べてくれたのはピカピカに磨き上げられた包丁と新品のように輝いている草刈り鎌達。
だけど俺の指先はふやけきっていて白い皮膚から透けるような真っ赤を通り越した紫がかった指先を見て急に冷たさを思い出して反射的に指を握りしめて温めようとするも強張ってうまく指を丸める事も出来ない。
「慌てないでください」
言いながら軒の外ではポツポツと霧雨のような雨が降る辺りこの一体は雲の中だと知る。
自分の状況を理解すれば俺の手を引いてゆっくりと母屋へと移動する。
土間上がりに俺を座らせ奥からタオルを取り出してくれて肩にかけてくれた。
「寒くはありませんか?」
「いや、あー、でもなんか冷えたかも」
「囲炉裏を焚きます?」
「そこまでじゃない」
いえば難しそうな顔のまま台所へ向かい竈に火を焚べていた。
「あ……」
初めて見た時は竈の火をつけるのにガスバーナーで竈いっぱいの薪に直接火をつけようとする無謀な姿の頼むからやめてくれと竈に火をくべる権限を取り上げたもののこの四年でしっかりと俺の薪の焚べ方を見て学んだらしく、前回燃え切らずに残った薪の上に脂分の多い杉の枝と細い薪きを少し足し、処分するように置いておいた雑誌を使って上手にマッチで火をつけていた。それから俺に台所すぐ横の部屋に移動させて温かい場所へと座らせてくれた。
何やら鍋を取り出し水を汲んで野菜と冷凍庫に残っていたご飯を投入してお粥でも作るつもりかコトコトと煮立てている。いい匂いだなと鼻をスンスンと匂いを嗅ぎ分けていればそこに牛乳を投入した。
「え?」
と思う合間にバターも入れる。こんな季節にも売っているのかりんごをスライスして入れる。さらにはちみつも入れる。どう見てもカオスだろ?と思うもひと煮立ちして最後にチーズまでかけて溶かしてくれたそれを皿にこんもりと盛って俺の目の前に出してくれた。
「その様子なら昼も食べてないのだろう」
ちらりと視線をそらした先にあるのはテーブルの上に置かれた俺の昼食。お茶碗とお椀はうつ伏せられたまま、そして焼き冷まされた野菜炒めはラップを掛けられたままだった。
「これはフランスにいた時寒い冬の朝によく食べたものだ。
最もお米ではなくオートミールを牛乳で煮て最後にグラノーラやフルーツで歯ごたえを加えはちみつは俺は入れなかったが代わりにハーブを何種類か入れたな」
「オートミールって離乳食のイメージだったけどそうやって食べるんだ」
「いわゆる西洋版のおかゆだ」
「シリアルと同じように食べて美味しくない理由はそこか」
「美味しく食べたくば手間暇をかけろ、それが料理だ」
「飯田さんってホントくいしんぼだな」
差し出されたスプーンを受け取り、少しだけシワが伸びだし血色が戻った指先を使って全然冷めた様子のないオートミールを掬って口へと運ぶ。
チーズの塩気とはちみつの甘さ、そしてりんごの香りとまだしゃきっと残る歯ごたえに改めて空腹だという事を思い出した。
「うめぇ……」
空腹を自覚した後は次々に熱さに負けて舌先を火傷しながらも搔き込むように掬って息を吹き付けては一心不乱に食べる。
唯ひたすら食べる。
貪るように食べてあっという間に皿の底にたどり着く。
少し寂しく思えばすぐに飯田さんがおかわりを入れてくれて、またひたすら食べる。
ただただひたすら食べてスプーンも舐めて
「これで終わりだ」
どこか呆れたような声を聞いてやっと皿から顔を上げて飯田さんを見た。
不安そうな視線が俺を見ながら
「そんなにも没頭する事があったのか?」
深くは聞かずにただどうとでも取れる答えでいい質問をしてくれたものに対して俺は
「ただ処分するだけは寂しいなって気づいてさ」
その結果闇雲に包丁や草刈り鎌を研いだ結果となった。土間の片隅には包丁や草刈り鎌が置いてあってどれを見ても数時間前は錆に錆びて研いだとしても使えるものかとは思えない姿をしていたなんて想像もつかないだろう。
「小屋と同じで手を入れてやればまた使える。そう思ったら少し可愛そうなことをしてと思って」
「それを言い訳に?」
そんなたまじゃないだろと言われたような気もした。四年も付き合えばそれなりにお互いの事情が見えてくるし、俺のトラウマなんてここに来る奴は大概が知っている。当然遺産問題で乗り込んできた親族と言い合ってるところに出くわした時もあったし……
俺がこんなグロッキーになるのは家族親族絡みだとたやすく見抜いていたのだから、ごまかしたって無理なのだろう。
長い沈黙の中悩んでため息とともに勢いをつけて吐き出す事にする。たぶんいつかは飯田さんでなくても誰かに吐き出してしまう事だろう。だったら溜め込むよりさっさと吐き出す方が心の中の整理もついて建設的と言うものだろう。
「小屋の中にバアちゃん色々溜め込んでて包丁とかと一緒に出てきたんだ。
昔の写真が」
ほう、と感心したような顔を一瞬作るもすぐに察してくれたのかまた難しい顔になる。
「ジイちゃんとバアちゃんが結婚した時の写真、この母屋の新築の写真、オヤジ達が生まれた写真、成長していく過程の写真、結婚した時の写真、俺が生まれた時の写真……
寒気がするほどの幸せ家族だったね」
たまった物じゃない。
生まれたばかりの俺を嬉しそうな顔で抱いてるバアちゃんとジイちゃん。その横で並んで微笑んでるオヤジとオフクロ。なに幸せですなんて顔をしてるんだよと吐き気がした。いや、その頃はまだ幸せだったのかも知れない。偽りに塗り固められてても取り繕えるくらいのレベルで。
そもそもオヤジとオフクロは近くの村に年頃の男女がいる、東京に仕事に向かうなら世話をさせる為に誰かがいた方が言うだろう。それなら見合いさせてみようという昔ながらのそう言った繋がりからの結婚だったと言う。むしろそれが当時当たり前だったと宮下のおばさんが教えてくれた。
高校の学校帰りにオフクロが知らない男と腕を組んでラブホに入る所を見てしまった時の衝撃は、学校に通うには不便なバアちゃんの家に俺を置いて俺から一切の興味を失った事情と理解し、宮下がオフクロと同級生だった宮下の母親にそれとなく話をすれば『あの二人まだ付き合ってたの?!』驚きついでにポロッと真実を吐き出してくれた言葉を教えてくれて俺はすべて納得した。どれだけテストで良い点とっても一度も褒めてくれず、記念受験と言って塾にも通わずに中学受験してうっかり受かったにもかかわらず辞退した事に理不尽さを覚えた子供心も周囲の目があっただけの環境で育てられただけの話だったのだ。
いらないならなんで産んだんだよと何度も罵った事もあったくらい親子関係は破綻している。
もちろんそれはオヤジもそうだ。
ばあちゃんを看病しなくては!と言いながらさっさと東京に帰って行った理由は不倫相手を俺達の家に住まわせて家族として過ごしている呆れたクズだ。
もちろん仕事柄信用問題もあるので離婚できないままでいるらしいが、その家の俺の部屋には知らない子供が住んでいる。俺より六歳年下のまだ高校生。
同じマンションの幼馴染が連絡取ってくれて教えてくれた事実にふさぎ込んだのは当然だ。
生まれて間もない俺を抱く写真を見て色々な事を思い出して叫びたくなる衝動を抑える為にも直ぐ側にあった包丁を砥ぐ事で気持ちを落ち着けようとする事にした。
なにも考えないように。
一心不乱に。
昔から一つの事に集中するとそれしか見えなくなる傾向のある俺は指先がかじかんで凍傷してしまうかも知れなくても山水を当てながら研ぎ続けていた所を飯田さんに止めて貰う事が出来た。案外これが飯田さんが毎週来る理由かもと思いながら返せる恩は精一杯のおもてなし。
ここは一つ飯田さん好みの竈を作って思う存分料理のできる環境を整えてあげようと、バアちゃんには出来なかったお金以上の恩を今度こそ返したいと決意を決めた。




