2019年10月15日 世界手洗いの日だしちゃんと手洗って
2019年10月15日
これはまだ彼女たちが同居をはじめて間もない頃の話……。
最初に異変を感じたのは真凛のするデパートでの買い物に西香が珍しくついて行った日の事だった。
西香「真凛さん、すみませんが少し……」
西香は視線を泳がせたので、真凛はそちらをちらりと見ると、そこには壁から吊り下げられたインフォメーションボードがあった。青と赤の男女のマークはトイレを意味している。
真凛「あっ、わかりましたぁ。いってらっしゃーい」
トイレに行きたいのであろうことを察した真凛は西香を送り出し、近くのベンチに腰掛けた。西香も荷物を持ってくれるのかなと期待をしたが、西香ははっきりとそんなつもりで来ていません、ときっぱり断って、真凛が二袋分の可愛いエコバッグを持たされている。西香はほんの数分で戻ってきた。
真凛「あ、おかえりなさい。早かったですねぇ」
西香「真凛さん、デリカシーが無いですわ。わたくしおトイレはしませんの。早かったも遅かったもありませんわ」
鬱陶しいなぁ、とは思っても言わない真凛だったが、西香のペースは本当に早かった。もしかしたら混んでいて使えなかったのかもしれない。まぁとにかく家路につこう、真凛は立ち上がって、二人でデパートを出た。
真凛「それで……やっぱり持ってくれないんですかぁ?荷物……」
西香「どうしてわたくしが持たなければならないんですの?スプーンより重いものは持ちたくないのですけど」
真凛「え~……でも西香さんの食べたいお菓子も買ったじゃないですかぁ……」
西香「あーもう、わかりました。では軽い方を一分だけ持って差し上げますわ」
真凛「ぶー……お家まで持ってくださいよぉ……」
こうして荷物をもたせたことを、真凛は少し先の未来で後悔することになるとは思ってもみなかった。
それからほんの数日後。
真凛「(おトイレっ、おトイレっ……あ、誰か入ってる……)」
真凛はトイレの鍵が閉まっているのを見て、静かにリビングに戻った。トイレから水を流す音が聞こえると、数秒後にリビングの扉が開いた。
真凛「えっ……西香さん?」
西香「はい?」
真凛「今……トイレ入ってましたよね?」
西香「はぁ……真凛さん、いくら宇宙の設定を活かしたいからって、最低限のデリカシーは守っていただきたいですわね。良くないですわよ、そうやってトイレからどうって話は」
真凛「……えっと、もしかして西香さん……手、洗ってないですよね……?」
西香「洗いませんわよ。別に汚れてないんですもの」
真凛「どぉぉうしてですかぁぁ!?」
真凛はそれまでのトーンを一転し、震える唇で叫ぶように言った。
西香「だって、わたくしやってませんもの。おトイレにはお散歩に入るだけで、わたくし汚れる事がないですので」
真凛「……え!?いやっ、少なくても扉に触るでしょぉ!?これまでのずっと手洗わないで来たんですかぁ!?」
真凛の「え!?」と「いやっ」の間には限界まで加速された思考の中で「一体何を言っているんだこいつは」と考える流れと、そこに言及したい気持ちはあった。だが追求したところで面倒なことになるだけだと悟る真凛の脳は「トイレを済ませた後に触る扉」という避けては通れないタッチポイントを選択し、最短ルートで西香の理論に追いついた。
しかし西香は無情にも一生する。
西香「汚れてませんからねぇ」
真凛「あわわわわわ……そんな現実耐えられない……この前食品を入れた袋を持ってもらったんですよ……!?」
西香「で?何が言いたいのです?」
真凛「うーぅ……お腹いたくなってきた……」
西香「それは多分偽薬効果の反対みたいなやつですわよ、気にしなければ平気ですわ」
真凛「洗ってください……おトイレから出たときはちゃんと手を洗ってください……」
西香「え~。汚れてないのに洗うのは面倒じゃありませんか」
真凛「その手で!!色んな所に触るんでしょぅぉお!!?扉を開いて、ゲームのコントローラーに触ってあ゛あ゛あ゛あ゛!!!お゛掃゛除゛し゛な゛き゛ゃ゛ああああ゛゛゛゛!!」
絶叫である。真凛がこれほどまでに恐怖を抱いたことはこれが初めてだったかもしれない。
西香「大げさですわねぇ。誰も死にゃしませんのに」
真凛「信じられない……洗ってくださいね?洗ってください。次洗わなかったら知りませんよ?」
真凛は至極冷静な声音でそう言ったが、プルプルと指が震え、今にも西香の喉元にクラッチクロ―で食いついて宇宙の果てまでぶっ飛ばしてしまいたい気持ちを抑え込んでいる。
西香「はいはい。わかりましたわよー」
で、この数時間後、トイレに入った西香を遠くから観察する真凛がいた。しかしそんな事を知らない西香はトイレをジャーと流し、そのままリビングの扉に手をかけようとしたのだ。
そこにすかさず、真凛が飛び出した。
真凛「おおおおっっとぉ!!西香さん!その手はなんですか!」
西香「はい?」
真凛「今!トイレから出たのに!手洗ってないですよね!?」
西香「……うわぁ、真凛さん、あなたもしかしてわたくしの……」
真凛「見てました……!西香さん信用出来ないから見てましたぁ!!」
西香「見かけによらず変態ですわね」
西香はやれやれと肩をすくめる。また人の心をかき乱してしまいましたわ、と自分に酔っているような振る舞いだった。
真凛「西香さんが手を洗わないからですー!洗ってくださいって言ったらはいって言ってましたよねぇ……!?」
その語調は攻め立てるほどに強く、留音や衣玖が聞いたら怯えてしまうような凄みがあったのだが、西香は何かを思い出すように首をかしげた後に。
西香「そうでしたっけ?覚えがありませんわね」
とトボけた。真凛はぎゅっと拳を握り、西香から視線をそらす。それから、
真凛「……あぁもうっ……耐えられないっ……こんな世界耐えられない!!!」
という言葉と共に、片足で地面を踏みつけた。
西香「あら?なにやら地震が」
この二秒後、地球は跡形もなく消えた。真凛が何度地球を人質に取り「手を洗え」と脅しても、その結果何度地球を滅ぼしても西香がトイレから出てきた時に手を洗うことはなく、結局真凛は諦めた。(ちなみに、こんな西香でもトイレが長かった時はしっかり洗っていたので妥協したという面もある。それを追求するのは流石に気遣い、避けたようだ)
それから真凛はこれまで以上に家の隅々までを掃除するお掃除狂になっていくのだった。
今日は世界手洗いの日。自分の体を病気から守るシンプルな方法、手洗い。でももしかすると、手洗いが世界を救うことにもなるかもしれないということも、今日を持って覚えておくべきなのだ。