2020年2月23日 不眠の日 ―あんたも眠れないの?― イリス編
2020年2月23日
あなたは今日、なんとなく眠れないでいた。ごろごろごろとベッドの上を転げ回り、あっちを向いて、こっちを向いて。
目を瞑ろうと、羊を数えようと、どんな呼吸法をしようとも眠ることが出来ない。
これは諦めて、一度起きることにしようと考えた。つまらない深夜のテレビでも見て気分を落ち着かせて、それからもう一度ベッドに入ることにしたあなたは家のリビングに向かっていく。
ガラス戸で出来たリビングの扉の向こうに淡い光が見える。それは明らかに通常の家の中にあるような光ではなかった。
なぜならそれは虫のように浮遊して、同時に明暗が不定であり、ランダムに動いているからだ。でも鬼火や霊的なモノを感じさせる類の不穏なものではない。ある少女が作り出した、超自然的な光の粒なのだから。
イリス「わっ」
扉を開けたあなたに、すこし驚いて光を大きくさせた後に消したのはイリス。フルネームはイリス・フォン・ルクレツィア・セーヌ・ラプソディ。この世界の名前じゃない。彼女は異世界から来た魔法使いなのだという。
イリス「あんたか……驚かせないでよ。せっかくちょっとぼんやりしてきたのに……」
イリスは「はぁ」と小さく息を吐くと、机に突っ伏して再び指先から光の球を作り出し、それを弾き飛ばして壁に跳ね返して遊んでいた。
淡くて不思議な光があなたの手元を照らしたり、遠ざかって影を作ったりしている。あなたはテレビを付けると、イリスの方も机に腕をついてそれを一緒に見始めた。
あなたは何かつまらなそうな、でも見れるというような番組がないかとチャンネルを回し続けた。よくわからないバラエティや、放送終了のカラー帯の静止画が『プー』という音と同時に流れていたり、見る価値もなさそうな通販番組があったり、再放送らしい昔のアニメもある。だが特に見たい番組はなく、退屈が増す。
イリス「……何かみたい番組があるの?」
イリスはぼんやりしながらそう尋ねたが、あなたは首を横に振り、眠れないから暇つぶしをしたいだけだ、と答えた。通販番組の大仰なリアクションが耳に届いて、すこし鬱陶しくてチャンネルを回す。これならどこかのCMを見続けたほうが良い。
イリス「あんたも眠れないの? ……あたしもなのよね。眠い気はするんだけど」
イリスはふぁあ、と短いあくびをして机に伏せる。あくびをしても眠れないという事もある。あなたはテレビを消すと、やはり横になっていたほうがいくらかマシかもしれないと思い、席を立った。
イリス「ちょっと。何よ、先に寝るの?……ふん」
イリスは口をとがらせた。仕方がない。どうせ横になっていても眠れないなら、ここでイリスと話して眠気をまとうか。あなたは部屋に戻って数枚の毛布を取ってくると、それをイリスに手渡してソファに座る。
机とソファは別の場所にあるのだが、イリスはあなたにつられたというべきか、そのままソファについて横に座ってきた。お互い毛布にくるまって、ソファの隣同士で座っている。あなたはすこしだけ奇妙な気分を覚える。
部屋は真っ暗だ。先程まで室内を照らしていたイリスの魔法の光がすこしずつその光度を失って、それ以降イリスは新しい光の魔法を放たなかった。だから真っ暗な部屋の中に、毛布に包まれた二人がいるだけの空間である。
もう一度テレビをつけるべきだろうか。二人で黙って横に座って、耳をすませば息が聞こえてくるだけ。どう過ごしていればいいのかわからない、よくわからない時間だ。多分イリスも何を喋ればいいのかわからないのだろう。
あなたは手持ち無沙汰からなんとなく「そういえばツインテールじゃない」というような事を言ってみた。
イリス「当たり前でしょ。もう寝るんだから……何言ってるのよ」
当然のことか。イリスはプンプンと、可愛い声でそう言った。彼女は物言いこそ強いことがあるが、根は優しいのである。
続いて、魔法で眠れないのかと聞いてみた。睡眠を導入する魔法などは様々な作品で見かけるものだが。
イリス「まぁ使えないことも無いけどね……でも魔法で眠るのって危険なのよ。魔的な睡眠は隣で大爆発が起こったってかけられた魔力が尽きるまで眠り続けるから、例えば火の手が寸前にまで来てても、焼かれても気づかずに寝るの。だから基本的には自力で眠るべきなのよ。どうしても長時間、何が何でも寝たい時は使わないこともないんだけど、そこまで緊急じゃないし……」
なるほど。可能だけどするべきじゃないということか。あなたは納得して、自力で眠ることを選んだ。
それから数分の沈黙。やがてイリスが「そうだ」と、くるまった布団から指を出して、真っ暗な天井に光の礫を飛ばした。
あなたはなんとなく天井を見上げる。目が暗闇に適応していたため若干の地形は見えていたが、見上げた天井にはいくつもの光の粒が広がっていた。
明度も大きさも違う光が散らばって、まるで宇宙だ。というよりも、そのものを再現しているように見えた。
あなたはその感想を込めて、ボソりと「綺麗だ」とつぶやいた。
イリス「でしょ。これはね、地球から見える宇宙の星々を再現した魔法なのよ。魔法の世界では星の場所ってすごく大事でね。それでマナの影響を見たり、方角を見たりもする。だから初歩的な魔法を覚える時、一緒にこの星図も覚えるの。綺麗でしょ。完璧な暗闇で見上げた時の星空だから」
そこにあったのは普通の住宅地では見ることが出来ないような、まるでプラネタリウムが映し出すような、まさに完璧な星空であった。
イリスは続けて、指先から小さな光の球を飛ばした。それはイリスの意思に沿って動いているようだ。その球はひときわ輝く空の星に飛んでいき、大きめの光を囲うように飛んだ。それからイリスが口を開く。
イリス「……これがプロキオン。こっちがシリウス。ベテルギウス。冬の大三角形」
光の球を自在に操り、描いた軌跡が大きな三角形を示す。
イリスは魔法の世界で天才なのだという。だからきっと、この星の再現度も完璧なのだろう。奥行きも感じられるし、まるで星空の下に座っているかのように錯覚してしまう。
あなたは感動して、それをそのまま声に出した。イリスが照れたように自分の頬を人差し指で撫でている。
イリス「……そんなにすごい? えっと、じゃああれが繋がって……ポルックス、カペラ、アルデバラン、リゲル……ダイヤモンドになるの」
あなたの隣に、得意げに星空を紹介する天体学者がいた。
イリス「ベテルギウスはね、星としての命はもう長くないって言われてる。地球に光が届くのは数百年かかるから、もしかしたら今この瞬間にもベテルギウスは存在してないかも知れないんだって……聞いてる?」
ひときわ赤い星を示しながら、あくびをするあなたに確認を取るイリス。あなたは優しく聞いてるよと声をかけると、再び家の中にある空を見上げる。本当に綺麗だ。イリスは何か難しい解説をしてくれているが、あなたにとってそれはちょっとした子守唄のようにも聞こえて、頭に入っているとは言えなかった。
そのうち、イリスのほうがウトウトとし始めた。あなたはそれに気がついたが、特に指摘することもなく、持ってきた毛布のあまりの部分をイリスにかけてあげる。とはいえあなたもそろそろ眠い。
そこにイリスがコテンと、あなたの肩にもたれかかってきた。吐息は既に安定して、くぅくぅと可愛い寝息をあなたの耳元に届けている。
やがてイリスの作り出した星空は次第に落下していく。小さな星ほど早く落下と同時に光を失っていき、線香花火のような光が床に落ちる前に消えていく。
丁度いい眠気があなたにもやってきた。隣で眠る寝息に吸い込まれるように、あなたもまたイリスの身を預かるように、ソファに深く座って眠りに入っていくのだった。




