2020年1月25日 左遷の日 ~憂鬱の解放者ルネ~
2020年1月25日
ここは街の喧騒を離れた小さなバー。常連と、たまに入ってくる疲れた客でギリギリ成り立っているような、たった4席しか無い質素な店だ。
そこに一人の客が顔を見せた。マスターはすぐに初めての客であることを知って、柔らかく一番奥の暖かい席を勧めた。
客の名前はルネ。職業解放者。8月8日より活動を開始し、10月1日や11月3日、1月4日など、不定期に活動する者。
彼女は記念日の氾濫を防ぎ、また記念日の過労死を防ぎ、そして人を助ける存在。だが彼女は今解放者ルネではなく、ただのルネとして席に座って、疲れを吐き出すように深い呼吸をした。
マスター・アンジー「お客さん、お疲れですか?」
アンジーはルネを見るのではなく、視界に収める程度にしながらキュキュキュとグラスを拭いている。
ルネ「ん……まぁね。何かおすすめあるかい? ちょっと強いのが飲みたい気分なんだ」
アンジー「そうだね、じゃあスプライツの炭酸割りをウィルキン炭酸で作った氷を入れたロック炭酸炭酸の炭酸割りでも」
ルネ「……いいね」
コポコポ、シュワーと注がれた炭酸オブ炭酸。ルネはそれを一気に半分ほど、喉を焼き切りたいかのように乱暴に飲んだ。
アンジー「お、お客さん……そんな飲み方はいけないよ。何かあったなら話してよ。こんな場所に来てくれたんだし、ボクでよかったら聞くからさ」
ルネ「そうかい? ……そのさ、実は仕事で、ちょっと張り切りすぎちゃってさ……」
アンジー「うん。どんな事やってるの?」
ルネ「解放者だよ、解放者。制定された記念日を解放する者。それが解放者の役目なんだ」
アンジー「なるほど。よくわからないけど続けて」
ルネ「今日はさ、日本最低気温の日なんだよ。初めて北海道でマイナス41℃を記録したってんで制定された記念日なんだ。……それに対して人々はどんな仕打ちをしたと思う?」
アンジー「仕打ち? いやちょっとよくわからないけど……暖房を焚いて過ごしたとか……?」
ルネ「違うよ。それは健康な生活をするためにただ必要な事だろ? そうじゃなくてさ、その記念日にさ……はぁっ」
そこにもう一人の客が入ってきた。長い金髪のツインテールでサングラスをつけたその女性は、マスターに手を上げて挨拶すると「いつものね」と頼んだ。その女性はルネの席から一つ開けた席につき、カウンターに肘をついて出てくる飲み物を待ちながら、横目にちらっとルネを見て、見慣れない客だと認識したようだ。
アンジー「おまたせ、イリスちゃん。それでお客さん、さっきの話の続きは? あぁ、この人は大丈夫だよ、常連の子。信頼できるから」
ルネはちらりとそのイリスと呼ばれた女性を見る。今しがたマスターから出されたカルーピス・ミルクを飲む彼女はどこかミステリアスな雰囲気を持っていた。
ルネ「ん……まぁいいか。どうせ左遷された話だし。それでな、日本最低気温の日にさ、記念日制定者達は……なんとホットケーキの日と中華まんの日を制定したんだ。それもこの『日本最低気温の日』にあやかってだよ。……あたしはこの真実を知った時、すぐに助けなきゃ! って思ってさ……でも駄目だったね。失敗」
アンジー「んん? ボクはちょっと解放者の仕事ってやったこと無いからわからないんだけど、どうして助けなきゃって思うの? 寒い日に暖かいものを食べようって事でしょ?」
ルネ「そうだろうね。でも考えてごらんよ、日本で暖かい、冬に食べたいものってどれだけあると思う? お鍋だろ、ラーメンだろ、ホットミルクにホットコーヒー、ホットココア、それにあったかいご飯に温かいうどん、温かいそばだってそうだし、温かいお茶だって飲みたい……いずれそんな記念日が制定されると思って、今のうちにこの中華まんの日とホットケーキの日をなんとかしておくべきだって思ったんだよ」
アンジー「うん。えっ? ……納得しかけたけど全然わかんない」
イリス「(日本人の記念日商売の話か……)」
ルネ「それにさ、日本最低気温の日、日本だっつってんのに中華まんの日を載っけてくる感じもさ。だったらお国縛りしようぜって思った。台湾ラーメンの日とか、イタリアンピザの日とかが入ってきたら素敵だったろうに、パンケーキじゃなくてホットケーキだしな」
アンジー「ホットケーキじゃだめなの?」
ルネ「ホットケーキは日本っぽいじゃん。パンケーキはアメリカっぽいだろ? 国際的になるからさ」
アンジー「なるほど、わかるようなわからないような」
イリス「(たしかにホットケーキよりパンケーキの方が国外っぽいわ……)」
ルネ「それが嫌で、あたしは今日という日を解放しようと頑張ったんだ。そうしたらさ、うちの連中、流石に意味がわからないって言い出してさ……でもさ、日本最低気温の日にあやかってる記念日がもう二つもあるんだぜ? このままじゃこたつや電気毛布、オイルヒーターなんかの暖房器具の日だって入ってくるに違いないよ。あたしは早く動いておくべきだと思っただけなんだ……それなのに……」
イリス「……」
アンジー「それなのに?」
ルネ「……左遷だってさ。あたし、解放者を左遷させられたんだ。今日は左遷の日で丁度いいからって。あいつらァッ! あたしがどんな気持ちで解放者をやってたかなんて知らないで!!!」
アンジー「……そっか……それで悲しそうだったんだね。あなたはその解放者にプライドを持っていたんだね」
ルネ「まぁ、ね。解放者の衣装、すごくかっこいいんだ。ビラビラのマントをはためかせてさ、外に出ればいつでも荒野で……無駄にスケールがでかくて好きだった。でもあんな、解放者の事を知らない奴らに仕事をパーにされたんだっ!! っくぅ……」
ルネは残った炭酸炭酸ウィズ炭酸を飲み干した。ゲップしそう感が全身を巡り、あまりにも強い炭酸の抜ける感覚が涙を流させる。
イリス「……バカね」
ルネ「え……?」
イリス「あんたはバカよ」
アンジー「ちょ、ちょっと! イリスちゃん! 初見さんなんだよっ?」
イリス「でもバカはバカよ。だって、それだけその解放者って仕事にプライドを持っているのに、どうしてそんな他人の言葉で傷ついているの? 解放者って、誰かに認めてもらわないと出来ないの?」
ルネ「……い、いや……」
イリス「あんたは記念日を解放したい。それだけなんでしょう? 左遷の日が何よ。だったら今度はあんたが左遷回避の日を作ればいい」
ルネ「左遷回避の日……。そうか、そうだよ……あたしはかつて、そうやって記念日へのカウンターをしてきたんじゃないか……! そうだ、ワンツースリーの日で何かを始めた人が、たった二日で左遷させられる可能性なんておかしいじゃないか……!」
イリス「だったらあんたがやることは?」
ルネ「あたしを……まずはあたし自身を左遷の日から解放する!」
イリス「行きなさい。代金はあたしが払っといてあげる」
ルネ「……ありがとう、ツインテさん。マスターも。あたし、まだ解放者としてやってみる。頑張ってみるよ!」
アンジー「……うん。またおいで」
ルネは瞳に光を取り戻し、その場末のバーを出ていく。イリスはその背中を見ないで、グラスの氷をカランと鳴らした。
アンジー「珍しいね、イリスちゃんが口を出すなんてさ」
イリス「別に。友達にもいるのよ、記念日が好きな子。でもやっぱり記念日が微妙だったり記念日が多すぎる日は大変そうにしてるからね……解放者はいてくれないと困るってだけだし」
アンジー「ふふふ、優しいなぁ。今度その子も連れてきなよ、きっとあの解放者さんもまた来るから」
イリス「そうね。マスターとも仲良くなれるでしょうし」
解放者ルネ、彼女の活躍はまだまだ終わらない。