2019年11月19日 衣玖ちゃんお誕生日
2019年11月19日?
衣玖「……ふぁあ……よく寝た。トイレ……」
彼女の名前は衣玖。天才だ。まず朝起きたらとりあえずトイレに向かう天才だ。
IQ3億を余裕で越えまくっている彼女は今日、誕生日を迎えていた。蠍座の女である。
昨日、衣玖が大好きすぎるインディーズハードパンクロックバンドの「ザ・ファントムスカルズ」のライブがあり、夕方に外出してから深夜まで小さなライブ会場ではっちゃけまくっていた。
ファントムスカルズはインディーズの中でも大人気であり、チケットは完売どころか抽選が発生するほどである。そんなバンドのチケットがが数日前に届いてくれたのだ。これ行幸と、お得意のスカルメイクと鮮血のように真っ赤な色に髪を染めてライブに向かった。
ちなみに衣玖は結成時から注目しており、今の人気の上がり方にはやや辟易としている。キャーキャー騒ぐだけの黄色いファンにはうんざりなのだ。ファントムスカルズは元々ドス黒く、血の涙を流すようなブラックなバンドだった。
衣玖「(ま、今のも好きなんだけどね……)」
そのライブ終了後、始発に乗って帰宅した後に長い睡眠時間を取ったため、起きた時間はそろそろ夕飯時。いつもと全く変わらない気配のするリビングの扉を前に衣玖は短い時間を思案に当てた。
衣玖「(っていうか、そういえば今日、私の誕生日じゃなかった……?)」
衣玖にとって自分の誕生日というのは些細な出来事である。毎日過ぎていく中での1日という事でしかない。そこにお祝いという行事が入る程度のことで、誕生日が来たからどう、ということは特に考えていなかった。
衣玖「(しかし……この静けさ……サプライズってやつかしら……いや違う……生活音は普通にしているわね……となると……)」
衣玖は考えを固め、扉のノブをひねった。
衣玖「おはよ」
留音「おは。寝すぎ」
留音はリビングのテレビで荷物運びのゲームをしながらそう言った。ソファには西香とあの子も座っている。西香はスマホのゲームをしながらチラチラと留音のゲームプレイを見ながら「どこが面白いのか全くわからない」と愚痴っている。反面あの子は興味津々のようだ。それから真凛は晩ご飯の準備をしており、キッチンからいい匂いが漂う。
衣玖「(なるほど……そういうパターンね。忘れたふりをしたままどっかのタイミングでドーンってサプラってくる感じの……ならばここは気づかないふりで行こうかしら)」
そうして刻々と時は過ぎていく。夕飯は普通の内容で、突然ケーキが出てくることなんかもなく。そしてみんなでそろそろ寝るかというタイミングになってもやはり何もなく。衣玖は何度「(忘れられてる?いやきっとそうじゃない……私が言うのを待ってるんだ)」と考えたことか。
しかし現実には、みんな完全に衣玖の誕生日など眼中にないかの振る舞い、結局それぞれの夜を過ごすような時間になってまで、何もなかった。
衣玖「(……もしかして本気で忘れられてる?)」
そろそろ日付も変わる。そんな時間になって誰からもアプローチがないのだ。
愛のためでなければ嘘がつけないあの子からすら、全くその事について声をかけられない。これはおかしい。衣玖はサプライズを期待していたが、まさか完璧に忘れられているという斜め上のサプライズが提供される可能性に気がついた。
一番近い留音の部屋に向かい、がちゃんと扉を開けた。さすがの健康脳筋女だ、もう部屋が真っ暗になっている。
衣玖「ねー……ルー……起きてー……起きてよー……」
衣玖は留音の体をゆすり起こした。可愛いぬいぐるみをガッツリ抱きしめて寝ている留音がゆっくり目を覚まし、衣玖が居ることを認識するなり焦ったようにぬいぐるみを突き放して平静を装っている。
留音「んだよもう……今何時?……って日付もまたいでねーじゃん……」
衣玖「……私の誕生日はぁ……?いや、別にやらなくてもいいんだけど……そんなの別に意味あるわけじゃないし……」
留音は眠そうながらに「何言ってんだお前?」という表情を浮かべた。衣玖も毎年言ってきていることではあるのだ、誕生日なんて大した意味はない、と。人間が成長に必要なものは時間よりも視野であり、そこから生まれる経験であるはずだ。人がより奥深さを得るのに時間は関係ないのだ。とは、衣玖も思っていたものの。流石に一言欲しかった。なんならケーキも食べられたら嬉しかった。
衣玖にとって誕生日とは何かの節目ではなく、自分のためにつくられたケーキが食べられる日なのだろう。
留音「お前さぁ……」
留音は呆れたように言った。
留音「誕生日、昨日やったじゃん。っとにもー……あたしは寝るぞ」
衣玖「……えっ」
衣玖はスマホを開き、日付を確認した。11月20日となっている。
衣玖「(ちょっとまってどういう事……?昨日はライブ行ってたけど……)」
それで疲れて帰って寝て……衣玖自身が誕生日をしていないのは当然だ。
衣玖「(あれ?でも待って……今ルー、『昨日やったじゃん』って言った……?)」
留音「何考えてるのか知らないけどここで考えてんじゃないよ。あたしは寝るの、出てけっ」
留音は衣玖を追い出すと再びぬいぐるみを抱き寄せて目を瞑った。
それから衣玖は部屋に戻り、実際に検証をしてみることにした。
衣玖「昨日の様子を確かめるしかない……タイムマシーンゴー!!」
IQ3億もあるせいでだいぶ昔に簡単に作れてしまったタイムマシンを使って飛んだ時間は昨日の夕方。自分がバンドのライブに出かけた直後の時間である。同じ時間軸の自分とエンカウントすると深刻なタイムパラドックスが起こってしまい、時空が崩壊してしまう恐れがあるので絶対に過去の自分に認知されてはならないのだ。
飛んだ前日、19日。リビングに入り込むと真凛がぼんやりテレビを見ていた。
衣玖「ねぇ真凛、今日の誕生日だけど……」
真凛「ふーんだ。せっかく衣玖さんのためにケーキつくったのに、わたしのケーキよりライブのほうが大事なんですよねっ」
あの子「(゜-゜*;)三(;*゜-゜)」
この会話は昨日していない。それに留音の発言とも矛盾している。真凛はケーキを既に用意していて、留音は誕生日をしたと言ったのだ。ならば衣玖自身はそのケーキを食べていなければならないが、自身に食べた覚えはない。そこに西香もやってきた。
西香「……あれっ?衣玖さん、ふて寝したんじゃありませんの?」
衣玖「はっ?ふて寝?なんで?」
西香「さっき言っていたじゃありませんか、ライブのチケットを失くしたって。散々わたくしを疑っておいて。最後は元気がなくなってちょっと寝るって言って……ピンピンしてるじゃありませんの」
なにかが起こっていると衣玖は直感した。衣玖は気配を消して自分の部屋に向かう。そこには通常の時間軸であれば既にライブに向かって、ここにはいないはずの自分がすっかり眠りこけていたのだ。ここでもし目を覚ましてしまったらまずい。鉢合わせした瞬間に時空がヴォイドアウトするかもしれない。
さて、衣玖自身がライブに向かった時はチケットを探したりなどしていない。西香の転売を疑うことなどせず、とても穏やかにスカルフェイス&ブラッドレッドのメイクをしてライブ会場に向かい、無事に奇声ヘドバン少女になることができた。
ということはおそらく、何かのきっかけでチケットはすでに消滅している。何かを理由に発生してしまった時空間の歪みを正すためにもうこの世には存在していないのだろう。
そうなれば方法は一つ。もう一度正規の方法で当選するしかない。一度当たった世界は通っているので回収は容易だ。タイムパラドックス回避のためにまずはチケットを取り戻して、それをしれっとここでふて寝している自分に渡してライブに行かせる必要がある。そして20日の留音が言った「誕生日はやった」という発言にも矛盾が生じないようにするなら、今この対策を考えている衣玖自身が参加すれば……。
衣玖「ってあぁ!!!!!!そういうことか!!!!!!」
天才の生き方は超めんどくさいのである。でもライブも行けてお誕生日も祝ってもらえて、めでたしめでたし。