幸福の切り株
友人が結婚するらしいと知ったのはポストに放り込まれていた一枚のはがきを見たからだった。確かあれは秋の始まり頃であったように思う。夏の落とし物がまだ少しだけ暑さを長引かせているような、そんな頃。受け取ったはがきには白い長方形の中にご出席とご欠席の文字が夫婦のように並んでいて、それは吉報だというのにどこか訃報のようにも感じられた。角ばった形式的な文章は全て印刷されたものでそれが私から現実感を奪う。そうか、結婚か、なんて。私は頭の中で白いウェディングドレスを身に着けた友人の姿を想像するも上手くできず、同様に新郎の姿も想像できないのである。友人の顔をした誰かが男の人と寄り添っている貧相なイメージはやがて背景とまじりあってふわふわとした白い靄になり果てた。彼女もそんな歳になったのかという驚きと、結婚なんて私とは無縁だなと遠い世界を俯瞰するような諦観。私は数日迷った末出席に丸を付けてそのはがきを返送した。
私が彼女と出会ったのは高校生になってからだ。当時周囲の世界に対してやや懐疑的であった私は人とのかかわりを避け隠れるように生活をしていた。与えられた学校生活をただただ消費していくだけの日常。そこには不満も満足も存在せず、私は淡々と日々を死なずに漂っているだけの人間であった。周囲もそんな人間に興味を示すことはなく、それですべて事足りていたあの頃。学生ゆえに許されていたぬるま湯に指を浸すような生活。そんな私に彼女は話しかけてきたのだ。それは単なる気まぐれか、それとも何か必要に応じてのことだったのか、今となってはどうでもいいことだったが、周囲とのかかわりを隔絶していた私にとってそれは天災のようでありまた神の救いのようでもあった。彼女は向日葵を絵に描いたような人である。常に光に向かうその姿を眩しいとは思ったものの、私の劣等感は虚栄心となってそれを羨むことを許さなかった。私は彼女の対等な友人として振舞うように努め、彼女もそれを良しとしてくれたように思う。私のささやかな学校生活はそうして彼女という一輪の花に飾られて過ぎてゆき、しかし私も立場というものをわきまえるほどには臆病であったためそれ以上のことは何も起こらなかった。
結婚式はごく普通に行われた。華美すぎることも貧相すぎることもない、何処にでもある幸せな人生の一ページ。向日葵は白百合に、彼女は真っ白なウェディングドレスに包まれた身を私たちの前に晒した。ヴァージンロードを歩く彼女は優しく微笑み、誰もがその笑顔を祝福する。私も同じだ、彼女の登場を穏やかな気持ちで迎え目の前を通り過ぎるその晴れ姿を晴れやかな気持ちで見送った。香水だろうか、ふわりと花の香りがして彼女も大人になったのだと私に実感させる。時の流れは彼女を、私を変えていったのだとその時ようやく気が付いたのだ。そう思うとどこか寂しいような気持にもなる。パールビーズだろうか、光を反射して輝くドレスの裾、彼女の身体をきゅっと締め付けて美しく引き立てる腰部分のコルセット、柔らかな乳房を包むレースは天使の羽であつらえられたかのよう。きっと花嫁というのは皆そうで彼女だけが特別というわけではないのだろう。しかし私の視線はすっかり彼女に縫い留められてしまった。壇に登った彼女は新郎と共に誓いを立て、指輪の交換などを行う。幸せを形にしたような柔らかな空間、ふっと笑う二人に思わず私の頬もほころぶ。ああ、なんと幸せな場所、幸せな時だろう。私は心からこの甘やかな幸福を喜び祝福した。
そして花婿と花嫁はしばし見つめ合った後向かい合って触れるだけの接吻をした。二つの影が一つに重なって絨毯にひとつの絵を描き出す。ステンドグラスからの光を浴びる彼女はまさしく一輪の花であり、しかしそれは私のものではなく隣に立つ素性も知らぬ男性のものであった。その時私をある衝動が貫いたのだ。今すぐ彼女の下に駆け寄ってそのドレスを引き裂いてやりたい。綺麗に化粧を施されたその顔に爪を立て乱してやりたい。壇上から、その男の隣から引き摺り下ろしてやりたい。そんな衝動は流れる滝のように私の中を滞ることなく通過していく。それは一瞬のことで私はめまいや立ち眩みに似たような感覚に襲われた。どうして彼女なのだろう、他の誰でもない彼女が何故一人の男のものにならなければならないのだろう、と。私はいたたまれなくなって涙を拭うふりをしてうつむいてしまった。この結婚式が世界にとって何かひどく不幸なものに思えてきて哀しみを覚える。花婿が彼女を奪った略奪者にすら感じられて驚きと共にその憤りを享受した。
式はつつがなく進む。私をその場に置き去りにして。今日という日はただ一点を除いてすべてが祝福と慈愛に満ちた素晴らしいものだったと思う。彼女の過ちは私を会場に招いたこと、いや、過ちを犯したのは私なのだ。最初から私は間違えていたのだとこの時は気が付けなかった。
私は引き出物のバームクーヘンをもらい二次会にも顔を出さずにその場を後にした。小雨が降る夕方の道を歩いていると手に持った引き出物の袋がただ煩わしく重いものに感じられて。傘もささずに歩く私を小雨は優しく濡らしていく。じっとり濡れた肌を抱えたまま寄り道もせず、振り向きもせずまっすぐ帰宅する。白に近い薄灰色の空は夕日を隠して明るく光り家路を照らしている。誰にも祝福されていない都会の喧騒の中を一人で歩いてゆく私は誰が見てもわかるほどみじめだったろう。一人暮らしのマンションの角部屋、家に帰り着いたとたん私は気が抜けてしまって大きく息を吐いて傍の壁によりかかった。反芻されるのは昼間の衝動的な感情と真っ白な彼女の姿で、その二つが脳の中でくるくる踊るように回っている。
彼女のことが好きだった。それは愛でも情でもなくただそれだけであった。しかし彼女は私の手の届かないところへ行ってしまい、私は一人取り残されて立ち止まっている。そうではない、最初から私は彼女に届いてはいなかった。学生時代に彼女と出会ってからこちら、一度たりとも彼女と私は友人などではなかったのだから。それでももし彼女に私たちの関係を問えば友達だよ、と答えてくれるだろうか。私は急に自信がなくなってきて脳内の彼女を追い求めてしまう。想像の中の彼女は向日葵の笑顔を浮かべて私に話しかけて手を引いてくれるが、そんな彼女はもういないのだった。ささやかなイメージは真っ白なウェディングドレスに翻弄されて蝋燭の灯のようにおぼつかなく、そして手を伸ばせば消え去ってしまう。
結局私は彼女に何を求めていたのだろう、そうふと考えて口を結んだ。向日葵はもういない、あるのはただ一人のために咲く白百合で、それは私にもみんなにも向けられたものではなく、彼女が選んだただ一人のためにある。学生の頃の幻想を未だに追い続けている私は、彼女がどうなれば満足するのだろうか。ただ一つ確かなのは結婚式に行きさえしなければ、あの接吻を見さえしなければ私の心は平穏の只中を揺蕩っていられたということだけだ。
引き出物の袋がカサリと音を立てて私は現実に帰ってきた。そういえば中身は無事だろうか、ずいぶん雨に晒してしまったようにも思えて大慌てで中を確認する。果たしてバームクーヘンは無事であった。箱が少しだけ湿り気を帯びているような気もするがその程度で、他は何の問題もなかった。私はゆるゆると立ち上がってバームクーヘンを卓上へ置くとそれをぼんやり眺める。薄茶色のテーブルに白い箱はただ地味で、どこかちぐはぐで私に似合っているようにも思える。私は台所からナイフとフォークを持ってきてバームクーヘンを切り分けた。黄金色に焼けたバームクーヘンには薄く白い砂糖がかかっていて、そしてケーキ特有の冷たくてすがすがしい香りがする。一人で食べきれるだろうか。きっと食べきれないだろう。切り分けられた切り株の一片を口に含みながらそう思った。