第12話 天使
部屋の中央には、鉄格子の檻があった。
檻のなかには巨大な昆虫の繭のようなものが押しこめられている。
かやの背丈と同じくらいか、それ以上の大きさだ。
「おい」
と船員が繭のほうにむかって声をかけた。
食器を床に置いて、もう一度言った。
「おい、おい!」
声をかけられても繭はぴくりとも動かない。
船員は近くのブラシをひろいあげると、柄の先っぽを繭につきさした。
パキパキと小枝をふんだような乾いた音を立てて、柄の半分までが繭に埋まった。
かやは鉄格子に近づいて、目をこらしてそれを見た。
柄のめりこんだ箇所には、ふわりと羽毛のようなものが毛羽立っている。
それどころか繭全体に羽毛がある。
それは翼だった。
信じられないくらい巨大な翼が折り畳まれており、それが繭のように見えたのだった。
「おかしいな……」
と船員が言った。
異常な大きさの翼は、きつく閉じられたまま、ひらく気配がない。
もう一度、船員が柄を突きさしたとき、かすかに翼が動いた。
「ひらけ! おい!」
船員のかけ声に呼応して、重そうな翼がゆっくり、ゆっくりとひらいていく。
花のつぼみがひらいていくような、気の遠くなるのろさで左右に広がっていった。
そのとき翼のあいだから、ひざを立てて座っている人間のすねが見えた。
やがて翼の内側から手で押しひらくようにして、若い女が姿をあらわしたとき、その美しさにかやは圧倒された。
若い女が翼のなかで汗ばみ、あやしくかがやいていた。
船員が天使と言ったのは彼女のことだとすぐにわかった。
「遅い!!」
と船員が白いもちをちぎって、鉄格子のあいだから投げこんだ。
天使は床にひっついたもちをちぎって、しずかに息をふきかけて口にいれた。
残りのもちを投げこんだ船員は、鉄格子の錠をはずして扉をあけると、かやに用便桶を片づけるよう言いつけて、上甲板に戻っていった。
「あなた私の言葉わかる?」
と天使はかやの顔をまじまじと見つめて言った。
かやと同じなまりのアラル語だ。
「あなたも連れてこられたの?」
かやはうなずく。
それから二人はしばらくのあいだ黙りこんでいた。
天使は床にねばつくもちをちぎっては口にはこんだ。
かやは鉄格子をにぎりながら、遠慮がちに天使に話しかけた。
「わたしたち、食べられちゃうの?」
天使はそれを聞いたとたん、おかしそうにくすくすと笑いはじめた。
それからむせて、また笑った。
「そんなこと誰から言われたの?」
「だって、いけにえにされちゃうんでしょ」
「あのね、あの人たちはだれも神を知らないのよ。いけにえなんていらないの」
かやはそう言われると、船員たちが食前に祈りをささげなかったのを思い出した。
ではいったいなぜ自分はこんな目に合わないといけないのだろう。
どこに連れて行かれて、何をされるのか。
それはかやの理解を超えていることだった。
今はわかるのは、とにかくこの船から逃げないといけないということだ。
「わたし、こんなところもういや。こんなの、売りものと同じだよ」
「そうね。わたしもそう思う」
「これからどうなっちゃうの? 人も、船も、鮫もいっぱいいる。どうやったって逃げられない」
そう話すかやの前で、天使は翼を何度も押し返していた。
全身をつつんでいる翼は檻いっぱいにひらかれているが、何もしないと、少しずつばねの戻るようにして、内へ内へ閉じていくのだ。
かやも翼の上のほうをもって、外に引っぱってやった。
「わたしもこの檻からは逃げられない」
短い沈黙のあと、天使が言った。
「でも、あなたなら逃げられるかもしれない。わたしたちのこと、だれかに伝えてほしいの」
「どうやって?」
「これ」
と天使は前にかがんで身体をくねらせると、翼のつけ根をかやに見せた。
「これを切ることができたら、あなたは逃げられる」
そのとき、船員が戻ってきた。
階段をおりてくるあいだに、天使がいそいで言った。
「切ることのできる人をさがして。わたしのこと信じてくれる?」
船員が来ると、かやをはげしく怒鳴り上げた。
用便桶の片づけがおわっていないからだ。
かやは天使と言葉をかわす間もなく、上甲板に連れ戻され、さらに全居住区の食器集めの仕事をさせられた。
さんざん働いて、夜になって仕事がおえると、女性居住区に入った。
窓の外には黒い結晶のような奴隷船が数隻、夜の水路をすべっている。
数隻の窓から灯がもれて、内部を人が通るたびに光がさえぎられたり、また突然ほとばしった。
それがなにか幻の出来事のように感じられた。
いのちのあるものが、いっぱいに閉じこめられた船が、正常に動いている。
その船のなかに自分もいる。
かやは自分のこと、これからのことを考えた。でもそのあとはもうなにも考えなかった。
汗まみれのまま、うずくまり、獣のように眠った。




