第11話 生首
そのとき一人の狂った男が後尾楼の屋根の上にいるのが見えた。
男は血まみれで、万歳をしていた。
手には、なにか大きなものを持っている。
それは斬り落とされたサメの生首だった。
血の垂れ落ちる生首を、何度もふり上げふり下ろすため、頭上にある白い帆に、鮮血が飛び散っていた。
かやはそれをただただ眺めた。
そこにある景色がすべてぼんやりした幻のようだった。
それがいったい何を意味しているのか考えることもしなかった。
かやは気の抜けたまま後尾楼に向かって歩いていった。
船倉に入り、水桶と雑巾を手にとって、また引き返した。
下甲板に戻る前に、もう一度ふり返って狂人を見ると、まだ生首を持ち上げていた。
甲板の船員たちは一切見向きもしていない。
かやは重い足どりで居住区に戻り、床にひろがる汚物をかたづけた。
強烈な悪臭のために何度も吐きそうになりながら、汚物を雑巾にしみ込ませ、用便桶でしぼって、水桶で洗い、またしみ込ませた。
少なくとも悪臭のなかにいるうちは、なにも考えずにすむのだった。
汚物を入れおわると、重くなった用便桶をもって、前甲板にのぼった。
用便桶いっぱいの汚物を、水中に落とすと、たちまちサメがむらがってきた。
まるで美酒をそそぎこんでいるようだった。
川は凪で波がないために、船のまわりに大きすぎるサメがうようよ泳いでいるのが見えた。
船のへりには石灰がついていた。
ぜったいに落とされまいと、羊人があがいたしるしだ。
羊人の魂は空中を漂っているのだろうかと思った。
後尾楼のほうを見わたすと、先ほどの狂人がサメの頭のなかに手を突っ込んでいるのが見えた。
なにかを探している。
手を引き抜いて、指をひらくと、そこには赤い臓器があった。
脳みそのようだった。
まだ温かそうな脳みそを手のひらにのせて、祈るようなしぐさで、それを額の前にもっていった。
すると、しずかに指をおりたたんで握りつぶした。
赤い鮮血が顔にとびちると、指のあいだから赤いどろどろした脳みそがはみだして、こぼれていった。
そのまま脳みそのかけらをサメの皮にすりこみはじめた。
かやはそれを見たときに、これは皮なめし人にちがいないとピンときた。
おそらく船員からの指示で、靴かなにかの革をつくっているのだろう。
背中が裂けそうなほどの、はげしい夏の日ざしを浴びながら、脳汁を一心にすりこんでいる。
皮なめし人の体は、人と同じかたちをしているが、皮膚だけが人のものではない。
白サイの皮を剥いでなめしたものを、頭からかぶっているような皮膚だった。
だぶついた皮膚のせいで目もとにはシワが寄り、力をいれて目を細めているように見える。
そのため容貌全体から不機嫌そうな印象を醸し出していた。
皮なめし人のなめし作業を見ていると、後尾楼のほうから、新しい食器をもった船員が来た。
器のなかには羊人たちの食事とはちがって、芋の粉をゆでてねりあげた、やわらかい団子が一個入っていた。
大きな器いっぱいに、白いもちのようにふくれている。
「食事、天使、来い」
と唐突に船員が言って、かやを連れて下甲板に戻った。
かやは天使とは自分のことを言っているのだろうかと疑問に思いながらも、船員に連れられるまま、隔壁の奥へ奥へと入っていった。
女たちの居住区を通り過ぎたあと、よくわからない粘液質の汁が、天井から糸をひいて垂れているところに出た。
ちょうど船の真ん中のあたりだ。
ねっとりした透明な汁が一筋垂れてきて、かやの髪についた。
かやはそれをつかんで取ろうとしたが、今度は指にくっついた。
ねちゃついてとれない。
二三度、手をふってみるが、ちぎれた汁が遠くまでのびていくだけで、指さきにはまだ吸いつくように汁が垂れ下がっている。
上方に鎮座するぶたましめぬうんの汁が、板のすきまからもれているのだ。
すきまからこぼれる光が、ぶら下がる何本もの汁の内部に差しこんでいた。
光のこもった汁は、はじくと弦の音がでそうなくらい、きらきらとかがやいている。
汁ののびきって落ちるところに、さらに下甲板への昇降口があった。
その中に入れと、船員が言う。
自分の居住区はこの下なのだろうか、とかやは思った。
汁をくぐって、下甲板に入った。




