第10話 羊人の悪臭
頭がない。
白い体だけがふらふらと歩いて来る。
「化けものがいる」
とかやは思った。
化けものがかやのすぐ目の前まで歩いてきたとき、光が昇降口からさしてその体を照らした。
すると光のなかに、ぬーっと黒い顔があらわれた。
闇に目がなれていなかったかやには、黒い顔が闇に溶けて見えなかったのだ。
しかし、そこにあるのは人の顔ではない。
羊としかいいようのない奇妙な首が人の体から生えていた。
黒い柔毛でおおわれた顔。
ぴんと水平にとび出た耳。
肉のついた頬。
眠そうな目。
「羊の人なんているんだ」
とかやはその異様な姿を見ながら思った。
頭だけ獣のかたちをした半人を見たことはなかった。
しかし、かやが驚いたのは、その体の自然さのほうだった。
人よりも豊かな筋肉の首がのびて、長く高まったところで、うねるようにして羊の頭がうみだされている。
まるで粘土をねって、のばして、彫りだしたように、頭から首、首から肩、肩から背の筋肉までしなやかに肉体の線がつづいていた。
そのため長い首であっても、全身として見ると、逆にそれが胴体のかたちと打ち解けあって調和していた。
羊人がさらに近寄ると、むっと悪臭がした。
野獣独特のたまらない臭みだった。
羊人はふらふらと今にも倒れそうになりながら、かやの横を通り過ぎていく。
そのとき羊人と目が合った気がした。
近くからよく見れば、白い体だと思われていたのは、石灰だとわかった。
なぜ石灰がかけられているのか、かやにはわからなかった。
「上れ」
と船員が鎖をひいた。
羊人は右足を階段にのせて、うなだれたまま動かない。
巨体を運んでいくだけの力が残っていないようだった。
船員が強引に鎖をひっぱると、それにつられてようやく重そうな足を動かした。
昇降口からはすさまじい光が羊人に落ちている。
死刑場へむかう罪人のように、ゆっくりと光のなかをのぼっていった。
「おい」
と別の船員がかやを呼んだ。
船員は階段のそばで大きな鍋をかきまぜていた。
「おい」
と夕食のスープをいれた器を、かやの胸に押しつけた。
スープにはぶつぎりにされたサメの肉が浮いていた。
かやはおいと言って器を受け取ると、居住区に運んだ。
隔壁のなかに入った瞬間、かやは悪臭で卒倒しそうになった。
糞、尿、汗、嘔吐物、血、あらゆる臭いがからまりあい、立ち上って、ほとんど息もできなかった。
用便桶がひっくり返って、そこから上がる熱気がねっとりと充満しているのだ。
蒸風呂のような悪臭のなかに、大量の羊人たちが座っていた。
互いに肩がぶつかるほど、ぎゅうぎゅうに詰められて、寝ころぶすきまもない。
手かせ足かせがつけられたままだった。
どこにも移動することが出来ずに、暗闇にじっと座っていた。
「どうぞ」
とかやは言って、手前に座っていた羊人の足もとにスープを置いた。
羊人はスープが置かれた瞬間、頭をつっこむようにしてそれを飲みはじめた。
あまりにも勢いよく器に顔を入れるので、顔の石灰は飛沫で落ちて黒くなった。
よっぽどお腹がすいているのだろうとかやは思った。
羊人が舌をつかってスープを飲むたびに、やわらかそうな耳が、ぴくぴくとしきりに動いた。
大きな横顔の毛のおくには、一匹のノミがいた。
よく見れば、手にも、腕にも、背にも、油ぎったノミが這いまわっていた。
ノミはなにかを探し回るように、あちこちから出てきては引っこんだ。
羊人の体じゅうにノミがうごめいているのを見ると、ぎゅうぎゅうに生命が充満しているように感じた。
悪臭の壁が顔を圧迫していたが、かやは心をきめて、残りのスープを配ってまわった。
狭い羊人たちのあいだに、ぐいぐいと足をいれながら、休まず動きまわった。
歩くたびに、ぱちぱちノミがはねて、かやの体にうつった。
全ての人数分配りおえると、船員が隔壁のなかに来た。
ひっくり返った用便桶を見ると、雑巾をもってきてふきとれとかやに言った。
掃除用の雑巾は船尾楼の船倉にある。
かやはそこまで取りにいくために階段をのぼって、前甲板に出た。
「え、なんで」
甲板では白い羊人が狂ったように暴れていた。
先ほどの羊人だった。
目をひんむいて、船員の髪の毛をつかんでいる。
しかし、船員たちによって、無理やり船のへりの上に押さえつけられていた。
船員たちが羊人を川に放り込もうとしているとわかったとき、かやは愕然とした。
「押せ押せ!」
船員たちは怒号をあげながら、自分の体を羊人にぶつける。
まな板のふちに寄せていくように、腕や腹を羊人にぶつけて、川にむかって何度も押し込むが、羊人はねばりつくように、船員に腕をからめていた。
腕をふりまわして暴れる羊人の白い体と、固定されて動かない黒い頭がアンバランスな動きをして、2つがちがう生物のようだった。
髪の毛をつかまれている船員は、羊人のぶあつい指を一本一本はずしていった。
それでも羊人は太ももで船のへりをはさみ、しがみついて、けっして落とされないようにすがりついている。
そのとき一人の船員が、勢いをつけて横腹を蹴ると、あっけなく落ちた。
白い肉体が船上から消えると、どぼんと大きな音がした。
かやは船のへりに走って行って、水面をのぞいた。
水面では何匹ものサメが、黒い背中をあらわして、羊人の肉体に食らいついていた。
次から次へと腹やふとももに歯を食いこませ、頭を左右に動かし、肉をひきちぎった。
尾で水面を叩くと、激しい音を立てて、水しぶきが飛び散る。
羊人は沈みこむ前に、ばらばらにちぎられて、肉のかけらに変わっていった。
かやはその光景を見ているうちに、何がなんだかわからなくなってきた。
今自分が見ているものはいったい何なんだろうと思った。
だんだん心が震えて、何もかもわからなくなった。
流れ出た血で、水面は赤黒く染まっていた。
それも船の進むのにしたがって、だんだんと後ろに流れていく。
サメの乱れ舞う音も聞こえなくなった。
血溜まりだけが、川の中央に、ぽつんと残されていた。
なにかがそこに置き去りにされているとかやは思った。




