第三話 アルス編 聖枢機卿の権威——孤児院の朝
孤児院に向かう馬車の中で、アルスは目を閉じていた。
王都の道は朝の人通りで賑わっている。
馬車の窓から見える光景——パン屋の煙突から上がる湯気、野菜を抱えた農夫、犬を連れて歩く子供——はいつ見ても心が落ち着く。
この街を守りたいとアルスは思う。政治的な理由からではなく、ただ純粋に——この朝の光景が続いてほしいと。
孤児院は王都の北区、市場通りから一本入った場所にある。
石造りの三階建てで教会が二十年前に建てた建物だ。
子供たちの声は遠くからでも聞こえた。
馬車が止まり、アルスが扉を開けると——
「アルス様!」
一斉に子供たちが駆け寄ってくる。
六歳から十二歳まで三十七名。
今日から七名が加わる。
アルスは白銀の長衣を着たまま、しゃがみこんで子供たちと目線を合わせた。
「おはよう、みんな。元気だったか?」
「元気! アルス様、昨日クッキー焼いたんだよ!」
「食べてください!」
「俺、字、また少し書けるようになった!」
口々に声が重なる。
アルスは一人ひとりの頭を撫でながら名前を呼んだ。
三十七名、全員の名前を覚えている。
この孤児院を、七賢院は潰そうとしている。
土地の接収という形で合法的に。
しかし、それは許さない。
アルスの表情はあくまでも穏やかだったが、その胸の奥には揺るがない意思が燃えていた。
「今日から新しい友達が来るよ」
アルスは子供たちに言った。
「遠くから来た子たちだ。言葉がまだ分からないかもしれないけど——君たちなら、友達になれると思っている」
子供たちが顔を見合わせ、それから頷いた。
一時間後。
アルスは孤児院の院長カーリンと話し合いを終え帰りの馬車に乗り込んだ。
ライトが隣に座り、書類を広げた。
「賢者評議会への返答書、シルヴィアが仕上げました」
渡された書類に目を通す。
シルヴィアの文章はいつも鋭い。
相手を直接攻撃せず、しかし逃げ場を塞ぐ論理の組み方——これを即座に書き上げるのだからたいしたものだ。
「完璧だ。そのまま送ってくれ」
「はい。それと——ラーテス賢者評議会の陳情書を持参した使者が、今朝アルス様への面会を求めてまいりました」
「シルヴィアが対応した?」
「三分間の対話でございました。使者はかなり動揺した様子で神殿を後にした、と衛兵が報告しています」
三分。
シルヴィアが本気を出すと、そのくらいで相手は折れる。
馬車が王宮に向かう大通りに入った。
両側に並ぶ建物の窓から、市民たちがアルスの馬車に気づいて手を振る。
聖枢機卿——それは教会最高位の五名の一人だ。
法王に次ぐ権威を持ち、国家の宗教的な判断に関して王すら容易には覆せない決定権を持つ。
そして——回復魔法六段階。それは表向きの話だが、この大陸に六段階の回復魔法師はアルス一人しか存在しない。
二十七歳でその域に達した者など、歴史上に例がない。
それが、二十七歳で聖枢機卿の座に就いた理由だ。
しかし、アルスが民に慕われる理由はそれだけではない。
彼が枢機卿になってから三年——疫病の際には自ら患者の元へ赴き、飢饉の際には教会の備蓄を惜しみなく開放し、貴族による民への不当な搾取を公開の場で断罪した。
彼の存在が、賢者評議会の王国支配の妨げになっている。
アルスはそれを知っている。
だから——孤児院への嫌がらせも、病を患う王妃への謀略も、すべてアルスへの牽制だと理解している。




