第二話 ノクス編 影の夜明け前
王都の夜は、もう少し長い。
表通りの灯りが消え、往来を歩く人が減り、やがて城壁の影が黒々と石畳に伸びる時間——ノクスは裏路地の奥の隠れ家の一室に一人で立っていた。
黒いフードを被ったまま窓の外を見る。王都の屋根の上に橙色の光が差し始めているのが見えた。
夜明けが来る。
ノクスは右手を見た。薄い傷跡があった。
どこかで受けた傷か——と思いかけて、止まった。今夜、俺は傷一つ負っていない。
戦闘でつく傷ではない。
そもそも、今の俺に傷をつけられる相手などいない。
では——なぜ。右手首の、同じ場所に。毎朝。
「......また、か」
低く呟く。
頭の奥が時々ぼやける。まるで別の誰かの記憶が、霧のように漂っているような感覚。
ノクスはその感覚を無理やり脇に押しやり、テーブルの地図に目を向けた。
地図の上には七つの印が打ってある。
王都の四方と、港湾区、商業区、それから地下街——それぞれに傘下のギルドが根を張っている区画だ。
暗殺、情報、密輸、賭博、偽造、人材斡旋、金融——かつてはそれぞれが独立して、互いに牽制しながら裏社会を分割していた。
ノクスが五年かけて一つずつ潰し、吸収し、今は七つ全てが一本の線でつながっている。「亡者」の下に。
目的は支配ではない。網だ。七賢院の工作が王都のどこに触れても、この網のどこかに引っかかるように——そのために作った構造だ。
七賢院——表向きは「ラーテス賢者評議会」と名乗り、学術機関として王国に根を張っている。しかしその実態を知る者は少ない。七人の賢者が評議会の看板を隠れ蓑にして軍・貴族・王宮に手を伸ばし、暗殺・資金操作・情報工作で国の意思決定を侵食している組織だ。
今夜も、各ギルド長から定時の報告が届いていた。港湾の密輸ルートに七賢院の資金が流れた形跡あり。商業区の金融ギルドが不審な貸し付けを確認。
どれも小さな動きだ。
しかし小さな動きこそが、証拠になる。
扉が静かに開いた。
「ノクス様、ご報告します」
入ってきたのはカインだった。
三十二歳、中背の男。
地味な服装で、一見すると市井のどこにでもいる職人風だ。
しかし彼が部屋に入った瞬間、空気の質が変わる——それが分かる者には分かる。
かつて暗殺ギルド「黒爪」を十年間率い、依頼達成率百パーセントを誇った男の研ぎ澄まされた気配。
カインの右側に立ったのはエルザだ。
二十三歳、細身の女性。
感情の読めない灰色の瞳で、胸の前に薄い書類を抱えている。
「聴く」
ノクスは地図から目を離さずに言った。
「王妃の件です。七賢院の手の者が、先週から王妃付きの典医に接触していたことを確認しました。接触した典医——ガロン典医は、昨日の夜王妃の薬を差し替えています」
ノクスの指が地図の上で止まった。
「毒か」
「はい。エルザが分析した結果、使われているのは数百年前の古代毒を七賢院が復元した『浸透毒』です。通常の解毒薬では対処できず、典医が毒と気づかない形で処方される。緩慢に、しかし確実に——」
「死に至らしめる」
エルザが静かに続けた。
「王妃が死ねば、後継ぎのいない王は政治的に孤立します。七賢院はすでに次の王配候補の名を用意しています。彼らの息のかかった貴族の娘と王が再婚すれば、王国の実権は完全に七賢院に移る」
ノクスは地図から視線を上げた。フードの奥の目が、静かに細くなる。
「殺させない」
短く言い切った。
「しかし——七賢院の息のかかった典医が王宮内部にいる以上、こちらが直接手を打てば正体が露れる。表立って動けない」
「ならば、どうする気だ」
ノクスはカインを見た。
「王宮に聖者を呼ばせる。聖ヴェイン神官——枢機卿アルスを、王妃の治療に当たらせるよう、匿名で王に進言が届くよう手配しろ」
カインが一瞬眉をひそめた。
「......孤児院の神官のことですか。あの男にこの毒を解毒できますか?」
ノクスは少し間を置いた。なぜか——回復魔法の術式の構造が手に取るように分かる感覚があった。浸透毒に対する解毒の過程。どの魔法を、どの順番で、どの強度で当てれば——まるで、誰かの記憶を覗いているようだ。
「できる」
ノクスは短く答えた。
「あの男は、表向きの格よりずっと上の力を持っている。毒の分析など一分もかからないだろう」
「......どうしてそれを?」
カインが怪訝な顔をした。ノクスは答えなかった。
「もう一つ」
ノクスは懐から封筒を取り出した。金貨の重みで、封筒がずっしりとしている。
「孤児院に届けろ。聖ヴェイン神官が運営しているやつだ。差出人は書くな」
「......金貨五十枚を、孤児院に、ですか」
カインは訝しそうな顔をしたが、封筒を受け取った。
ノクスは踵を返した。なぜ孤児院に送ろうと思ったのか——自分でも上手く説明できない。ただ、あの子供たちの顔が、脳裏に浮かんだ。会ったことも、見たこともないはずの——顔が。
「ノクス様」
エルザが声をかけた。
「もう一件。騎士団の調査局から、新しい調査官が『亡者』追跡の任務に就いたとの情報を掴みました」
「名は?」
「セリア・ハルトと申します。二十五歳、騎士団でも随一の調査能力を持つと言われています」
ノクスは扉の前で止まった。
セリア・ハルト——名前を聞いた瞬間、顔が浮かんだ。金色の髪。真っ直ぐな目。
なぜ、顔を知っている。会ったことはない、はずだ。
「......監視はするな。彼女には触れるな」
部下たちが怪訝な顔をするのが分かった。
「ただし、動向は追え。彼女が危険な場所に近づきそうになったら、それとなく遠ざけろ。傷つけることは許さない」
それだけ言って、ノクスは部屋を出た。廊下を歩きながら目を閉じた。頭の奥が、また、ぼやける。
俺は何者だ——
その問いに答える前に、ノクスは意識を切り換えた。今夜やるべきことがある。七賢院の密偵が、王都の東区で動いていると報告があった。




