第一話 アルス編 枢機卿の朝
王都ラーテスの夜明けは、いつも神殿の鐘から始まる。
低く腹に響くその音が、石造りの建物の間を縫い市街の隅々まで伝わっていく頃——アルス・ヴェインはすでに神殿の奥の間で目を覚ましていた。
白銀の長衣に腕を通しながら窓の外を見る。
橙色の光がゆっくりと地平線を染め、王都の屋根の上に柔らかく降り積もっていく。
美しい朝だ、とアルスは思った。
毎朝そう思う。
今朝も、夜の記憶がない。眠りについた瞬間から目覚めまでの間がぽっかりと空いている。
夢を見たような気もするが——何の夢だったか、霧の向こうへ消えてしまっている。
これは昔からのことだ。だから、気にしない。
ただ、右手首を見た時——薄い傷跡があることには少し首を傾げた。
昨日はなかった。
「......また、か」
声に出して呟いた。夢遊病だろうとアルスは自分に言い聞かせた。
手のひらに薄い光をかざす。
回復魔法——ごく小さな、ほとんど無意識の動作だ。傷跡が静かに消えた。
毎朝そうする。
なぜそうするのかは、深く考えない。
ただ、習慣のようになっている。
袖を下ろして廊下へ出た。
廊下に出ると、ライトが待っていた。
筆頭補佐官のその青年は、二十四歳とは思えない落ち着きで羊皮紙の束を小脇に抱えながら立っていた。
細い眼鏡の奥で、知性の光る目がアルスを見る。
「おはようございます、アルス様。本日の予定をご報告します」
「おはよう、ライト。歩きながら聞こう」
二人は連れ立って廊下を歩き始める。
「午前八時、孤児院の定期訪問。本日は新たに七名の子供が入所いたします。うち二名は隣国からの難民の子弟で、言葉が通じません。シルヴィア様が昨夜のうちに通訳の手配を済ませています」
「さすがだ。シルヴィアには感謝を伝えておいてくれ」
「伝えましたが、彼女は『当然のことをしたまでです』と言っておりました」
アルスは笑った。いかにもシルヴィアらしい。
「午前十時、ラーテス賢者評議会からの陳情書の返答期日です。孤児院の土地接収要求の件です」
「シルヴィアの意見は?」
「『受け入れる必要はない。むしろ彼らが正式な申立書を出してきたことを逆手に取り、公開の場での審議を要求すれば引き下がる』とのことです」
アルスはうなずいた。
「それでいこう。返答書の草案はシルヴィアに任せる。内容は確認するが、方針は彼女に一任する」
アルスは少しの間、書類を眺めたままでいた。
ラーテス賢者評議会。
表向きは王国公認の学術・諮問機関だ。貴族の子弟に魔法理論を教え、王宮への政策提言を行い、大陸の歴史書を編纂する——そういう組織として、世間には知られている。
しかしアルスは知っている。その評議会の中枢に、「七賢院」と呼ばれる影の組織が潜んでいることを。
七人の賢者が評議会の顔を借りて王国に根を張り、軍部・貴族・王宮の内部に人を送り込み、五十年かけて静かに支配の網を広げてきた。陳情書も使者も、表の仮面に過ぎない。
証拠を、積む必要がある。
今はまだ動けない。
「承知しました。もう一点——王妃様のご容態が昨夜から急変されたとのことです。王宮から、今日中にアルス様のご出向をとの要請が参っています」
「急変。——先週お会いした時点では何も問題はなかった。一晩でここまで崩れるとは……外から何かが加わったとしか考えられない」
「典医たちも原因が掴めておらず困惑している模様です」
アルスは歩きながら目を細めた。
王妃の病——あれは、おかしい。
単純な疾患にしては進行の仕方が不規則すぎる。
「午後、王宮に向かう。孤児院の訪問が終わり次第準備を整えてくれ」
「はい。——それとアルス様、もう一点」
ライトがわずかに声を低めた。
「今朝、匿名の寄付が届いていました。封筒の中に金貨五十枚と一枚の紙が」
「紙に何と?」
「『子供たちのために使え』とだけ」
アルスは立ち止まった。
受け取った封筒を手に取り文字を見る。
整然とした、しかしどこか——懐かしい字だった。
見たことがあるような気がして眉をひそめた。しかし誰の字かは思い出せない。
「差出人は分からないか?」
「はい。私が調べましたが封筒の出所は特定できておりません」
「......使おう。冬に向けて暖房の燃料が不足していたはずだ」
アルスは封筒をライトに戻し、歩き出した。なぜか胸の奥が、微かに揺れていた。




