第十三話 アルス&ノクス編 夜更けの空白——境界が揺れ始める
その夜更け。
アルスは神殿の礼拝堂に一人でいた。
いつもより遅い時刻だ。
何かが——眠ることを妨げている。
礼拝堂のランタンの光の中でアルスは自分の右手を見つめていた。
傷跡。
毎朝、右手首の同じ場所に。
戦った覚えはない。
誰かに触れられた覚えもない。
それでも毎朝新しくついている。
まるで——体の内側からにじみ出てくるような。
「私は——夜に、何かをしている」
声に出して言った。
それが何かは——分からない。
しかし、何かをしている。
体が証明している。
そして——なぜか知っている場所や、知っているはずのない顔や、使えるはずのない魔法の感触。
それらすべてが繋がっているような気がする。
「誰かが——」
アルスは言いかけて止まった。
脳裏に黒いフードの影が浮かんだ。
しかし——それが誰なのか、どこから来たのか、分からない。
アルスは目を閉じた。
礼拝堂の静寂の中で遠くに鐘の音が聞こえた。
夜明けが近い。
「もう少しだけ——」
アルスは呟いた。「もう少しだけ、待とう」
何を待つのか——自分でも分からなかった。
ただ、何かが近づいている気がした。
* * *
同じ時刻。
王都の外れでノクスは夜空を見上げていた。
「昼と夜の境を歩く——」
壁に刻まれた言葉がまだ頭に残っている。
ノクスは右手首を見た。
薄い傷跡。
今夜もついている。
今夜の戦闘でついた傷ではない——それだけは確かだ。
俺は今夜傷一つ負っていない。
ならばいつついた。
どこで。
なぜ毎朝、同じ場所に。
「何かを、知っている気がする」
そう思ったのは——廃神殿の中で壁の文字を読んでいた時だ。
読んでいたというより——思い出していた、という方が正確な気がした。
白いローブ。
子供たちの声。
澄んだ目。
「うるさい」
ノクスは目を閉じた。
しかし——今夜は、打ち消す前に少しだけその感覚に留まった。
白いローブの——誰か。
その「誰か」が、今夜も王都のどこかで静かに仕事をしている。
民を守るために。
——俺と、同じことをしている。
ノクスは目を開けた。
「俺は何者だ」
その問いに、今夜は——形のない、しかし確かな何かが返答しようとしている気がした。
まだ言葉にはならない。
しかし——近い。
夜が明けようとしていた。




